『青い涙―①―』小松 郭公太

 

青い涙
―①―

 

 

小松 郭公太

 

 

 

 古いアルバムの中にある一枚の白黒写真。従兄の昭男ちゃんと一緒に撮った写真だ。裏庭の板塀の前で姉二人と昭男ちゃんのお姉ちゃんを交えて撮った。昭男ちゃんは一番前にしゃがみ、襟元に親指を当てて他の指を広げるポーズをとっている。僕は、その後ろでごく普通の姿勢をして立っている。昭男ちゃんは白い半ズボンに黒い襟のポロシャツ、僕は少し濃いめの半ズボンに白地に横縞の開襟シャツを着ている。
  昭男ちゃんは、トシ伯母さんの子供である。トシ伯母さんは僕の父さんの姉さん。福島で果物店を営む金治伯父さんの所へ嫁いだ。金治伯父さんは在日朝鮮人。日本に来てから今岡さんという家に養子になった。その出自も朝鮮半島のどこから何故日本に渡ってきたのかも、僕には何も分からない。分かっているのは、伯父さんの発音が僕たちの日本語とは少し違うということだけだ。
 昭男ちゃんの家は果物屋さんなので、いつもお土産に美味しい桃を持ってきてくれる。
その桃を昭男ちゃんと二人、縁側に座って食べる。がぶりとかぶりつくと、甘い果汁が滴り落ちて手も口もぐちょぐちょになる。昭男ちゃんは最後に残った種をしゃぶった後、庭に向かってプッと吹き飛ばした。僕も真似してみたが、種は縁側のすぐ下に落ちた。
「昭男、崇志に変なこと教えちゃだめだよ」
 と、居間の方からトシ伯母さんの声。昭男ちゃんは一瞬首を竦(すく)めたが、
「母ちゃん、何も変なことなんかしてねえ。この庭に桃の種を蒔いているだけだ」
 と負けていない。
「だったら、ちゃんと土をかけておきなあ。水もたっぷりやれよ。あははは」
 明るい親子の会話がよみがえってくる。 

 

 あれは、夏の終わりのことだった。庭の李(すもも)の木に留まったミンミン蝉が、過ぎ去っていく夏を惜しむかのように声を絞り出して鳴いていた。僕は、昭男ちゃんと二人で家の裏山へ出かけた。僕は小学一年生。昭男ちゃんは六年生。昭男ちゃんのポロシャツの襟は紺色。僕の開襟シャツの横縞は薄緑色である。
 裏山に沿った小径を行くとすぐに「光水」と呼ばれる清水があり、そこが裏山への登り口となっている。非常階段のようにジグザグに折れ曲がっている坂道を登ると、途中から平坦な道となり、ほどなく見晴らしのよい小さな広場に着く。石板で作られたベンチが二つ並んでいる。頭上には後ろの斜面からせり出した楓や栗の木が覆い被さるように葉を茂らせている。ここから清沢の市街地を望むことができるのだ。すぐ足下に木造の小学校があり、その隣には鉄筋コンクリートの白い市役所庁舎がある。
 僕は昭男ちゃんに、「あそこが清沢駅、あの看板がセントラルデパート、あの煙突が大関酒造」と腕を真っ直ぐに伸ばして人差し指で照準を合わせるようにして教えた。鼻腔を少し広げ誇らしげである。昭男ちゃんは「ふーん」と頷いてはいたが、それらは彼の興味をそそるものではなかったようである。
「ん、あれは何」
 昭男ちゃんの瞳が輝いた。市役所の北側に空き地がある。そこに大きな白いテントが張られているのが見えた。それは一週間ほど前からこの街で興行している木内大サーカスのテントだった。
 そういえば、この前、商店街でパレードがあった。白い燕尾服に山高帽をかぶった団長を先頭に赤や緑の派手なコスチュームを着た芸人たちが行列を作る。玉やこん棒によるジャグリング、異様に長い竹馬の足、逆立ちやバック転の技。その後にちんどん屋も続き、赤鼻のピエロがせわしなく動き回り見物人たちの笑いを誘う。そして、パレードの後ろの方に大きな象の姿が見えてくる。僕は、本物の象を見るのが初めてだったのでその大きさには本当に驚いた。だんだん象が近付いてきて僕の前を通り過ぎるとき、しわしわの長い鼻と体の大きさに似合わず円(つぶ)らで優しい瞳が印象に残った。
 昭男ちゃんにサーカスのことを教えたら、もう興味津々でいろいろ訊いてきた。
「それで、崇志はそのサーカス見たのか」
「ううん、まだ見てない」
「そうか……」
 昭男ちゃんは、大きな白いテントを眺めながら、
「見たいな、見たいな」
 と呟いていた。が、
「出発」
 と僕が駆け出すと昭男ちゃんは僕を追い越す勢いで駆けだした。行き先は頂上にある「見張台」だ。この山にはその昔「清沢城」と呼ばれていた城址がある。探索すると、「本丸跡」「見張台跡」「馬場跡」等々、山城があったことを伺わせる痕跡をいくつも見つけることができる。
 途中、葛折りの道が次第に狭くなり、いつの間にか僕たちは藪の中に入り込んでいた。藪をかき分けて小径を進む。と、意外に造作なく目の前は開けた。たどり着いたのは円形の小さな広場だった。切り株がいくつかあり、二人はそれぞれの身体に合った大きさのものを自分専用の腰掛けにした。見上げると青空があった。生い茂る笹の葉がサワサワと鳴った。三百六十度をぐるりと見渡す。そのとき、どこかで何かがキラリと光った。東側の斜面。その上に灰色をした電波反射板があった。
 藪の小径を少し下ると直ぐに登り斜面になる。二人は早く藪から抜け出したくて無我夢中で斜面を登った。遙か遠くの一点を見つめている電波反射板。僕たちは、そのコンクリートの土台まで行き着き、少し休憩してから尾根を南に進んだ。清沢城址は近い。
 鬱蒼とした雑木林の中にある緑色の池。無垢板(むくいた)の道標に「馬洗場址」と墨で書いてある。ちょうど馬一頭が入れそうな大きさが二人の想象を戦国時代へと駆り立てる。木の枝にモリアオガエルの卵塊が生み付けられている。白い泡の固まりが枝をきしませて淀んだ水にその姿を映していた。
 雑木林の中を抜けると急に辺りは開けてくる。そして、誰が何故こんな所にと思ってしまうくらい唐突に人の手によって耕された畑がそこにあった。照りつける太陽の光をいっぱいに浴びてキュウリやトマトが色鮮やかに実を成らせている。
「あっ、あれは何だ」
 昭男ちゃんが急に走り出した。畑のあぜ道を渡り、小さな段差を駆け上がり、日当たりの良い栗林を抜けると、ぱあっと視界が広がった。眼下には清沢の街並みが広がる。さっき見た広場からの眺めとは比べ物にならないほどの見晴らしだ。小さな屋根が街道に沿って切れ間なく並んでいる。その先に広がる緑の水田。所々に集落の固まりが点在している。この田園の中をゆったりと雄物川が流れる。更にその奥には出羽丘陵が連なり、その後方に鳥海山がそびえ立つ。なだらかな裾野を左右に悠々と広げている。
 しかし、昭男ちゃんが最初に見つけたのは、その景色そのものではなく、その景色を一番よく見渡せる場所にある一本松だった。この一本松からは清沢の街は元より、隣町、更にその隣町まで見渡すことのできる。この老木こそ、ここに見張り台があったことを忍ばせる唯一残された史跡だったのである。
 朽ちて無惨な姿をさらす老木には、やはり朽ちた木の梯子が掛けられていた。雨風雪にさらされながら共に年月を経た老木と梯子は互いに寄り掛かるようにして身を支えていた。そしていつのまにか、枝が絡まり一本の幹になるのと同じように一体化していった。そんな老木を人々は、朽ちてもなお見張り台の役割を果たす一本松として寓話化していた。
 昭男ちゃんはその一本松に魅せられたのだ。僕が追いついたときには、すでに彼は梯子を登り終え、手頃な枝にまたがって、どこまでも広がる視界を独り占めしていた。すると、青空に漂っていた白い雲が急に金色に光り出した。見ると鳥海山の右側に太陽が陽を落とそうとしている。太陽は自らも光り輝き、出羽丘陵の山々を金色に染めながら落ちていく。
「わああ、きれいだあ」
 昭男ちゃんの声が僕の頭の上から聞こえてくる。二人は、居場所こそ違え、今まさにクライマックスを迎えようとしている夕暮れの一時を共有していた。そして、僕も登ろうと梯子に足をかけようとしたそのとき、昭男ちゃんの声がもう一度聞こえた。
「あっ」
 一瞬のことだった。僕の頭の上にいるはずの昭男ちゃんが僕の横にうずくまっている。少しの間、時間が止まった。
「昭男ちゃん、大丈夫」
 僕が昭男ちゃんの側に行くと、昭男ちゃんはニヤリと笑って「大丈夫」と応えたが、その顔は蒼白で額から冷や汗が流れていた。
「昭男ちゃん、大丈夫」
 僕は同じ言葉を繰り返したが、その声はか細い。昭男ちゃんは右足の足首の辺りを手で押さえて「うーん、うーん」と唸っている。これはただ事ではないと思った。「どうしよう。僕が昭男ちゃんを負ぶっていこうか」。昭男ちゃんの腕をそおっと取ってみた。すると昭男ちゃんは、「痛い」と顔をしかめた。そして、
「崇志、俺は歩けそうもない。誰か大人の人を呼んできて」
 と顔を引きつらせて言った。
 僕は走った。さっき登ってきた山道を引き返した。途中に誰か大人の人がいることを願って走った。金色の空があっという間に夕焼けに変わった。畑のあぜ道も、栗林も、馬洗場の卵塊も、電波反射板も。全てのものが赤く染まっている。僕は生い茂る笹の葉をかき分け葛折りの坂を駆け下りた。そして、サーカス小屋を見つけた広場に着く頃にはもう辺りは薄暮となっていた。その間、人っこ一人とも出会わなかった。
「母さーん、大変、昭男ちゃんが……」

 

 

 

 

―②―につづく

 

 

 

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執筆者紹介

小松 郭公太

小説作品に、『気球に乗って』(イズミヤ出版)がある。
第45回北日本文学賞 第4次選考通過。

 

 

 

 

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