『あなたが触れたー①ー』片山恭一

あなたが触れた①

 

片山恭一

 

 

 どう言えばいいだろう。何をやっても手応えがない。いつも「違う」と感じてしまう。違う、これではない。これではない何かをやっても、やっぱりこれではない。何かが間違っている。何もかもが間違っている。自分が自分を間違っている。
 自分はまだはじまっていない。本当に生きられたことがない。いまだ前史の段階に過ぎないのに、すでに時間から退いている。手の届かない遠いところへ四散してしまっている。孤独というよりも空虚。自分のなかに時間が流れておらず、空間だけが広がっている。
 これは病気だろうか。仮に病気だとして、治療法はあるのだろうか。糖尿病のようにインスリンを投与すれば症状は改善するだろうか。脳内物質が原因なのだろうか。PETでスキャンできるだろうか。遺伝子的な治療は可能だろうか。ゲノム編集か何かで遺伝子をいじくれば治るだろうか。
 仕事を変えてみた。営業、商品開発、マネージメントと、異なる分野への無理な転職を重ねた。どんな仕事でも、それなりに「有能」だった。業績を上げ、すぐに責任のある地位を任された。だが不全な感じは残りつづけた。あいかわらず間違った自分を生きているという感じが消えなかった。何をやっても届かない。自分が自分に届かない。
 空腹は生理的な欲求だから、食べれば腹は満ちる。では心は、どうやればいっぱいになるのだろう。何を買っても満足感がない。何を手に入れても充足感がない。心を満たす方法が見つからない。過食は心の病気だ。腹は満ちているのに心が満ちない。だから際限なく食べてしまう。ギャンブル、アルコール、薬物、買い物、ネット、ゲーム……多くの依存症は心の空白を満たそうとするあがきなのかもしれない。
 仕事で知り合ったスタッフと数人で、小さなコンピュータ関係の会社を立ち上げた。ここでも過剰に働いた。職場環境を整えるためにマネージャーを兼任することにした。確かな手応えを得たいがために、他のスタッフがやり残した仕事を、深夜までかかって一人で片付けることもあった。ウイスキーを飲みながらのことが多かった。アルコールが入っても仕事に支障は来さなかった。ほとんど自分のアパートには帰らず、仮眠室のソファで朝を迎える日がつづいた。
 そのころから親の家におかしな電話をかけるようになった。歪んだSOSだったのかもしれない。両親は息子が自殺するのではないかと案じていたようだ。考えてみてほしい。自分がまだはじまっていない、本当に生きられたことがないと感じている者が、他人事みたいな自分を殺そうとするだろうか。それは自殺というよりも他殺に近いのではないだろうか。届かない自分が、届かない自分を終わらせることに、どんな意味があるのだろう。
 両親とはいつも話が噛み合わない。きっと生きている世界が違うのだろう。見ているものも吸っている空気も、まったく違うのではないかと思うことがある。彼らにとって人生は何か意味のあるものらしい。生きていることは無条件に良いことなのだ。一方で、死は悪という根深い思い込みがある。どんな人生観を持とうと勝手だが、それを人に押し付けないでほしいものだ。こう言うと、彼らはすぐに反論するだろう。おまえはわたしたちの息子ではないか。その息子は、存在しない自分を殺すかわりに、リアルに存在する両親を殺めることを考えていた。
 あそこまで行けば息がつける。足を置いて休むことができる。そこは自分の場所だ。自分が自分の場所にいるのは当然だし、正当なことでもある。だが、たどり着けない。どうやっても行き着くことができない。家に帰りたいのに、車が道を塞いでいて通り抜けることができない。警察に連絡してレッカー移動してもらおう。警察はあてにできないから自分で排除してしまおう。
 問題は、それが車ではなくて人であることだ。しかも相手は自分の両親だった。自分よりも近くに父がいる。母がいる。自分に行き着こうとすると、彼らが立ちはだかってしまう。自分に触る前に彼らに触ってしまう。彼らがいるかぎり、自分が自分に届かない。なぜそんなふうに感じるのかわからない。医学の問題でないことは確かだ。かといって交通法規の問題でもなさそうだ。
 ミラン・クンデラによると、ベートーヴェンの最後のカルテットの最終楽章は、「そうでなければならないのか」という問いかけと、「そうでなければならない」という苦悶の末の決断、という二つのモチーフで書かれているらしい。
「そうでなければならないのか」
「そうでなければならない」
 こんな問答を果てしなく繰り返していると、誰だって気がおかしくなる。おかしくなった挙句に、ホームセンターでステンレスの包丁を買った。同じものを二本買い、手紙を添えて一本を親の家に送った。狂言自殺みたいなものだった。犯行の手口を事細かく書き綴ったので、手紙を投函したときには、すでに殺人を犯してしまった気がした。止めてほしかったのかもしれない。せめて警察に通報してくれればと思った。レッカー移動されるべきは息子のほうだ。
 父は怯え、母は寝込んだ。彼らはあまりにも善良だった。もう充分ではないのか? でも、あいかわらず自分が自分に届かない。近づいてきている気もしない。
「本当にそうしなければならないのか」
「そうしなければならない……」
 医者を頼ったのはワイドショーにネタを提供したくなかったからだ。二十八歳の息子が両親を惨殺。人々の好奇の餌食になるつもりはなかった。見ず知らずの他人に娯楽を提供するほど気のいい人間ではないつもりだ。自分とはなんの関係もない誰かの身に起こったことに同情したり、腹を立てたり、もっともらしく解説したり、非難したり、罵ったり……気晴らしや暇つぶしの材料にされることへの強い拒否感と拒絶感があった。
 彼らもやはり自分に届いていないのではないだろうか。届いていないから、他人の不幸をお笑いやグルメ番組のように消費することができる。風景のように見て、モノのようにやり過ごすことができる。他者の痛みに触れてもなんの痛痒も感じず、見終わったあとはすぐに忘れることができる。それは病理学や精神医学の問題ではなく、ハンナ・アーレントの言う「凡庸な悪」の問題かもしれない。

 

 ここにいるほとんどの人間は、他人にも自分にも関心がない。一方で自分が嫌いでたまらないという者もいる。彼らは自分で自分を片付けようとする。自分をレッカー移動しようとする。そこまで自分に執着できる者たちが羨ましくもあった。
 何かを短縮したいという欲望。あらゆるショートカットは暴力である。奪うこと、犯すこと、殺すこと。神がモーセに授けた十戒は、人と人のあいだのショートカットを禁ずるものだ。自殺も一つのショートカットである。間違いなく神の戒めに触れる。だが自分までの距離を短縮することにはならない。通り過ぎるだけだ。素早く自分を通り過ぎる。どこにもたどり着かない。あいかわらず自分に届かない。
 自分を直接に破壊することができないから、自分のいちばん大切なものたちを破壊しようとする。それによって自己破壊を成し遂げようとする。この歪んだ観念は、どこからやって来るのだろう。細やかな愛情を注いでくれた両親。いくらか専制的ではあったが善意に溢れていた。息子を賛美することも怠らなかった。とくに母親のほうは、いささか度を越して際限がなかった。だが、やらなければならない。それは避けられない強制か、良心的な義務のように思えた。
 医者から処方される薬によって、殺人の衝動は鳴りを潜めている。もともと自死や自傷の衝動を押さえ込むための処置だから、使われる薬物の量は致死量に近い。おかげで多くの者たちは死んだようにして生きている。薬の力で死から遠ざけられた者たちは、同じ力によって生からも遠ざけられている。彼らは生者でも死者でもない。強いて言えば生ける屍といったところか。孤独と沈黙に沈んだ生。何もすることのない毎日。墓石の下に封じ込められたような日々。望むところだ。強い薬に溺れ、死んだようにして死ぬまで生きていよう。
 会社のスタッフには、鬱病と診断されたのでしばらく休養すると伝えた。同僚たちは労わりの言葉を口にしながらも、妙に納得したようだった。きっと彼らの目にも壊れかけていると映っていたのだろう。ゴッホがサン=レミの精神病院に避難するようなものかな、と軽口のつもりだったが、気のいい同僚たちは顔をこわばらせた。両親には知らせていない。見舞いに来られたりしては困る。急に音沙汰がなくなったので、かえって不安に駆られているかもしれない。厄介者の息子は目下、行方不明中。不穏な気配だけを残して、彼らの視界から姿を消した。
 幸いゴッホのように耳を切り落とす必要はなかった。鬱病の診断基準は頭に入っている。真面目で責任感が強く、前向きで明るい人間が、原因不明の恐怖と不安を訴えている。不眠がつづき体重も減少している。自殺思慮もある。原因は仕事で無理を重ねたこと。そんなふうに診断を誘導した。
 外の世界から隔離されていることの心地よさ。入院しただけで気持ちが安らいだ。ここでは自分が自分に届いていないことが普通なのだ。誰もが間違った自分を生きている。それが当たり前のこととして許容されている。安全な場所に匿われて、もう戦う必要はないと感じた。自分の欲望とすら戦う必要がない。これ以上に安全な場所があるだろうか。ほとんどの欲望は自分が自分に届いていないことから生じる。自分が空っぽだから、金や地位や名声や他人の愛情などを過剰に欲しがる。届かない自分や間違った自分を、当たり前のこととして受け入れてしまえば、何かを欲望する必要はなくなってしまう。
 加えて、入院生活には不思議な全能感があった。医師も看護師も患者を自殺や自傷から守るために世話を焼いてくれる。こっちは彼らを自在に操ることができる。医師に処方させた薬物によって眠りと安らぎを手に入れることができる。こうした全能感は子どもが抱くものに近かった。子どもは誰もが全能だ。かなわないことなどないと思っている。自分の願った贈り物をサンタクロースが届けてくれると信じ込むほどに彼らは全能なのだ。これに似た全能感に浸りながら、実際のところ子どもに退行しようとしていたのかもしれない。
 視界が悪かった。鏡を見ると自分の顔が映っている。自分が見ている自分の顔にはなんの意味もない。意味は自分の顔を自分以外の者に結びつけたときに生まれる。口元は母親に似ている。頬骨のあたりは親父にそっくりだ。やはりあなたたちなのか? 出生の秘密を握っているのは。彼らの存在によって自分は潔癖ではないと感じる。自分が自分である前に何者かによって汚染されている。だから取り除いてしまわなければならない。
「そうでなければならないのか」
「そうでなければならない」
 耳の奥で鳴りつづける呪文のようなベートーヴェン。どこまでも追いかけてくる不穏な衝動を振り切って、深いところまで沈んでいこうと思った。得体の知れないものたちが追いかけてくることのできないところへ、誰にも見つからないところへ。両親も追いかけて来ることのできないところ、父母未生以前の、さらに遠く人間以前へ、深く、深く潜行していく。
 宮沢賢治も好きだったエルンスト・ヘッケルは、「個体発生は系統発生を繰り返す」と言っている。そんなふうにして進化の過程を逆にたどっていこうと思った。哺乳類から鳥類へ、爬虫類へ。デボン紀を通過して両生類から魚類へ。もう二度と、ここへ戻って来るつもりはない。透明な時間を垂直に掘り進んで深く、もっと深く。そして出会った。古生代や中生代の生き物、プロントザウルスやステゴザウルスに出会うかわりに幽霊と……おそらく幽霊だったのだろう。
 夢を見ていた。思い出すのも嫌な夢だった。誰も追いかけてこないところへ逃れたはずなのに、何か得体の知れないものに追いかけられていた。大きな鳥のような影が迫ってくる。邪悪で不快な黒い影だ。とても眠ってなどいられない。いまにも叫びだしそうだった。声を発する前に目が覚めた。呼吸が荒くなっている。パジャマが汗で濡れている。発作がやって来ようとしているのだろうか。ナースコールを押すべきだろうか。
 部屋の明かりは消えている。寝る前に聴いていたCDは止まっている。シューベルトのピアノ・ソナタ。入院してからそればかり聴いている。シューベルトはやさしい苦悩であると言ったのは誰だったろう。起きているあいだも眠っているあいだもずっと聴いているので、音楽はほとんど静寂と区別できないものになっていた。そして夢を見た。シューベルトのせいではないと思う。ただの嫌な夢だ、と自分に言い聞かせた。
 目が覚めてからも、夢のつづきを見ているみたいだった。何もかもが歪んでいた。窓のカーテンレールも、部屋の隅に置かれたロッカーも。足元に人影を認めた。誰かがいた。いつのまにか何者かが入ってきて、ドアのところに立っている。それから時間を遡るようにして、ドアの開く音を聞いた気がした。さらに廊下を人が歩いてくる足音が聞こえた。自分は死にかけているのだと思った。たったいま死んだところかもしれない。
 心を静めて状況を把握しようとした。姿を見ることはできなかった。金縛りにでもあったみたいに、首も手も動かない。息を殺し、耳を澄ませた。何者かがゆっくり近づいてくる音が聞こえた。病院のスタッフだろうか。声をかけようと思ったけれど、声が出なかった。睡眠薬のせいで再び眠りに落ちかけ、うつらうつらしたところで不意に目を覚ました。何かが動いている。白い影のようなものが、部屋のなかを動きまわっている。視界の隅にその姿が見えた。若い女のようだった。
 目は完全に覚めていた。意識も明晰だ。恐怖は感じなかった。邪悪なものやおぞましいものではなさそうだ。影は窓に近づきカーテンを開けた。窓も開けたようだった。心なしか部屋の温度が下がった気がした。冷たい月の光に照らされて、見知らぬ女の姿が浮かび上がった。
「何をしている」
 言葉は難なく口をついて出た。女は自分の名前を呼ばれたかのように振り向いた。目が合った。彼女のことを知っている気がしたけれど、その顔は、自分が知っている誰の顔にも似ていなかった。遥かに遠い思い出の奥底から彼女を見ている気がした。
「幽霊なのか」
 馬鹿げた問いだと思った。すると不思議なことが起こった。こちらの問いに応答するかのように、女の真っ黒い髪が一瞬、白髪に変わり、さらに窓から差し込む月の光を浴びて銀色に輝いた。不思議な感動をおぼえた。自分が何をしようと世界は無言のまま表情一つ変えない。そんな世界を生きていると思っていたのに。ところがいま、たった一つの問いによって世界は表情を変えたのだった。