『白いミトン』小松郭公太

 

 

 

白いミトン

 

 

小松 郭公太

 

 

 駅前角の二階にある喫茶スワン。
 聡志は、窓側のボックスに座っていた。
 彼女は、約束の時間午後五時ちょっと過ぎに現れた。紺色のオーバーコートに赤いチェックのマフラー。そして白い毛糸のミトン。
 その前日の朝、聡志は、清沢城公園の小径で彼女を待ち伏せていた。雪が降り積もり、辺り一面が真っ白。聡志は彼女と同じく、横森市の高校へ列車通学している。
 彼女の姿が遠くに見えた。雪降る公園の中に、一人立っている高校生の姿はやや異様だった。しかし、目的に向かう聡志には他の何物も見えていない。
 彼女がだんだん近付いてくる。彼女は聡志の存在に気付き、一瞬視線を移したが、そのまま聡志の前を通り過ぎようとした。
「あの、これ、読んでください」
聡志は、白い封筒を彼女に押しつけるように渡して、駅に向かって走った。
「急にこのような手紙を渡すことになってしまい、ごめんなさい。実は、あなたに直接合ってお話したいことがあります。明日午後五時に、駅前の喫茶スワンで待っています」
やったぞ。遂にやった。聡志は、手紙を渡すことができた喜びで一杯になった。

 

 その冬は歴史的豪雪だった。十一月の内に四・五十センチメートルの雪が積もった。十二月上旬で積雪は百センチメートルを越え、年が明けても雪は止むことを忘れたように降り続けた。
 教室前方の引き戸が開き、担任教師が現れた。
「県内の国鉄が全面運休となった。そのため、本日の授業はこれで終了とする。これから全員安全に留意して帰宅するように。以上」
  さて、国鉄が全面運休となれば、頼みの綱は奥羽交通のバスだけとなる。聡志は清沢に帰る二人の同級生と一緒に駅前にある奥羽交通営業所に向かった。断続的に吹雪きが吹き荒れる。
 営業所には沢山の高校生が押し寄せていた。奥羽交通のバスの運行は大幅に遅れていて、いつバスに乗れるかも分からない状況である。
「歩こう」
賢治が言った。
「ここで黙って待っていても、乗れるとは限らない。歩こう」
賢治の判断は、決して唐突なものではなかった。このまま待っていて日が暮れたらどうなるのか。それを考えたら、歩いて少しでも家に近付いた方が良い。
「でも、二〇キロもあるんだぞ、清沢まで」
洋介が言った。聡志は考えた。
「一時間に四キロ歩いたとして、五時間か。今十時だから、夕方までには十分帰れるな」
「そうだね。大丈夫だ。行こう」
洋介も納得した。
  その日の天候は目まぐるしく変わっていった。雪がしんしんと降り積もるときもあれば、急に吹雪きが吹き荒れることもある。かと思うと、一瞬雪も風も止み、雲の切れ間から青空が見えて、太陽が顔を覗かせることもある。
 奥羽交通営業所を出たときは、雪がちらちらと降る程度だった。しかし、横森市を抜け、平塚町の跨線橋に差し掛かったとき、それまで穏やかだった天候が急変した。
 三人の真っ正面から強い吹雪が襲いかかった。雪が顔に突き刺さるように吹き付ける。何秒間か、前が全く見えなくなった。立ち止まり、吹雪に背を向けるが立っていることが出来ない。

 

「ごめんなさい。私、今日鬱(うつ)なんです」
彼女はそう言って席に着いた。ショートカットの前髪が揺れた。
「えっ? 鬱って」
聡志には、彼女が言う「鬱」の意味が分からない。いきなりカウンターパンチを食らった感じだった。
 彼女はケロリとして、運ばれてきたミルクティに口を付けた。長い睫毛をしている。これから先、どう話を持っていったらよいのか分からなくなった。さっきまで自分の中に作り上げていた和気藹々(あいあい)とした会話のイメージが崩れていく。運ばれてきたコーヒーに手を付けることもできずに時間だけが流れた。
 聡志は、徐(おもむろ)に訊ねた。
「どんな本が好きですか?」
「そうですね。今は高橋和巳を読んでいます」
聡志の方に向けられた鼻先が、ちょっとだけ上を向いていた。聞いたことのない名前だった。
「『邪宗門』なんかいいですね」
さらりと流れる前髪。長い睫毛の瞬きが聡志の未発達な心に食い込む。
「好きな芸能人、いますか?」
何とも軽い質問だった。
「私、佐藤け~が好きなんです」
えっ、聞き取れない。けい?、けん?。しかし聡志はそのどちらであるのかを聞き返すことができない。どちらにしても、歳の離れた大人の男性が好きだなんて、彼女の外見と内面の落差に閉口してしまう。
 彼女からのいくつかの質問に答えた。太宰治を読んでいる。かぐや姫の曲が好き。
 しばらく沈黙が続いた。気まずい空気の中、彼女が口を開いた。
「あの、手紙にあった私に話したいことって何ですか?」
彼女が大きな瞬きをした。
「あっ、それは、つまり」
聡志は、思い切って準備してきた言葉を繋いだ。
「僕と交際してもらえませんか?」
彼女は、空になったティーカップに目を落とした。そして、
「ごめんなさい。私、付き合っている人、いるんです。ごめんなさい」
と言って、席を立った。
 窓の外は雪。
 聡志は、コーヒーカップに注がれたままの冷めたコーヒーに目をやった。

 

 さっきまでの吹雪が嘘のように止み、雲のフィルターを通して白い太陽が見えてきた。三人の髪も眉毛も凍り付いて真っ白だ。
 前方から緑色のローダーが進んできたので、道路脇に積み上げられた雪の上で通り過ぎるのを待った。雪を積んだオレンジ色のダンプカーがチェーンをジャラジャラ言わせて通り過ぎた。たまに一般の自家用車も通る。
 もうすぐ益田駅の交差点だ。清沢まであと八キロ。もう少しだ。
 と、後ろの方から自動車の音が近付いてくるのが分かった。振り向くとそれは、奥羽交通のバスだった。緑と青を基調とした車体に青の横線が三本入っている。バスは聡志たちの横をゆっくりと通り過ぎた。人いきれで曇った窓。バスは、高校生たちで一杯だった。
「今頃来たって遅いよ」
三人は、足を止めバスを見送った。
 バスの後方には多くの女子高生の姿が見えた。聡志は驚いた。その中に彼女がいたのだ。長い睫毛の横顔が窓ガラス越しに見えた。バスが通り過ぎるほんの数秒間。前髪を揺らし、彼女の鼻先が聡志の方に向けられた。
 聡志は窓ガラスの向こうの彼女を見上げた。彼女の白い毛糸のミトンが小さく振られた。一瞬のことだったが、それはスローモーションのように残像として残った。
 聡志たち三人は、遠ざかっていくバスの後ろを見送ると、また清沢に向かって歩き始めた。バスのテールランプが白いベールに包まれ、やがて見えなくなった。
 腕時計を見ると、かれこれ三時間が経過している。聡志たちは、益田町の繁華街を歩いていた。道路の左側に「まるいちデパート」
の看板が見える。彼等は、ここでひとまず休憩することに決めた。オーバーコートの袖口や裾が凍り付いていた。帽子と手袋はびしょびしょである。
 建物の最上階である三階のレストランには、地元の買い物客と見られる老人たちが数名いた。聡志たちは、このレストランで人気の高校生ラーメンを頼むことにした。
 暖房とラーメンで身体が温まると、身体のあちこちに今まで感じることのなかった痛みが感じられた。そして眠気も。
 そのとき、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。冷え切った空にけたたましい音が響く。やがて、救急車のサイレンも鳴り出し、デパートの下を通り過ぎて行った。
  さあ、もう少しだ。この先にある成瀬橋を渡れば清沢市に入る。三人は、目的地に向かって勢いよく歩き始めた。断続的な吹雪の中、ペースが徐々に上がっていく。
 成瀬橋に近付くと、遠くに赤い灯りが続いているのが見えた。車の渋滞だった。橋の上は吹雪が舞っている。吹雪の向こうに、幾つもの赤色灯が回っているのが見える。救助工作車の照明が橋の下を明るく照らしていた。

 

 あの事故が起きてから数十年が過ぎた。吹雪で視界を失ったバスは、凍り付いた路面でハンドル操作を誤り、欄干を越えて落下した。死者三名、重軽傷者五十余名という大惨事だった。
 聡志は、毎年その日が来る度に彼女のことを思い出す。
 雪の公園で手渡した手紙。
 喫茶スワンでの稚拙なやり取り。
 バスの窓に見えた白いミトン。
 彼女の真実など何一つ知ることが出来なかった。
 もう数年で定年退職を迎えようとしている今、そのうわべは変わってしまったけれど、心の内には、未だに幼さが残っている。

 

 

(了)

 

 

執筆者紹介

小松 郭公太

小説作品に、『気球に乗って』(イズミヤ出版)がある。
第45回北日本文学賞 第4次選考通過。

 

 

 

 

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