やすちゃん⑦
にゃんく
だから今、こうして実際に目のまえにいるやすちゃんが、まぼろしに思えて仕方ない瞬間があるのだ。
ぼくとやすちゃんは、涼やかな風の吹きはじめた或る秋の日、お互い日取りをくんで、駅まえの適当な店で久闊を叙した。二十歳のときにやすちゃんが旅に出てから、十一年ぶりであった。
やすちゃんに以前の面影はなかった。目の下に隈ができ、頬は窶れている。中学生の不良だった頃のような茶髪でこそなかったけれど、髪が耳を隠し、手いれのされていない髭がのび、擦りきれたGパンを履いていた。目がねの奥に昔のような目のかがやきはなかった。何となくぼくがいま会っているのは、やすちゃんに似ていない、血の繋がった親族のような気がした。なりたい自分ではない、どんどん違う自分になっていく。やすちゃんだけではない、自分だってそうだ。久しぶりに会うからこそ、記憶のなかの像(イメージ)と現実とのギャップはおおきかった。歳をとるというのはこういうことかとぼくは思った。
ひょんなことからやすちゃんと再会する機会がめぐってきたのは、ぼくが登録していたあるSNSによるものだった。
ぼくが通っていた小学校のなまえを検索すると、このSNSに登録し、なおかつ情報を入力しているにんげんのなまえが列挙される。
やすちゃんの本名は津田安夫というのだけれど、この小学校つながりのなかに、<やすお>というなまえの者がいて、ぼくは「もしや」と思ったのである。
相手が自分のページを閲覧されたことがわかる機能である<足跡>をためしにのこしてみた。数時間ご、<やすお>もぼくに<足跡>を返してきた。
――もしかして、やすちゃんですか?
とぼくは思いきって<やすお>にメッセージを送ってみた。
――誰?
と<やすお>からへんじが返ってきた。ぼくのハンドルネームは<ワンコ>だったので、誰だかわからなくて当然だろう。ぼくは彼に名字をあかしてみた。すると、
――てーちゃん?
とかえってきた。そして<やすお>も本名をあかした。ぼくの予想どおり、<やすお>はあのやすちゃんであることが判明した。
懐かしい再会だった。
ビールを一杯飲むと、ぎこちなさがほぐれはじめた。お互いにすこしずつ、これまでの歩みを語りはじめた。
やすちゃんとタミエさんは十年間ともに旅をした。或る日、タミエさんがとつぜん姿を消したのは、十一年めの冬のことだった。
後から考えるに、予兆のようなものは前々からうかがうことはできた。そもそもタミエさんがやすちゃんを選んだのも、タミエさんが若い子に目がないという性癖からであったらしいのだけれど、三十歳になったやすちゃんに飽きがさしたのか、タミエさんが地元の漁師の青年と懇ろな仲になったというのだ。
はじめはタミエさんの好きなようにさせていたやすちゃんだったけれど、ほとんど青年との逢瀬に明け暮れてばかりいるようになったタミエさんに、さすがに焼きもちを妬いたというわけではないが、まがった根性をまっすぐにしてやるくらいの気持ちで多少きびしく問いただすと、意外にもタミエさんから、あの青年のことしか考えられなくなった、もうわたしのことは忘れてもらえないかと実にあっさりと別れを切りだされた。あまりの変わりように、やすちゃんはあっけにとられた。自分がタミエさんを捨てることはあっても、タミエさんに捨てられることになろうとは考えてもいなかったやすちゃんは、けれども生活していくための金はタミエさんが握っているし、どうしたものかと思案しているうちに、電撃的にタミエさんは旅館から姿を消していた。その青年といずこへか出奔した可能性が大だった。書き置きすら残していかなかった。あまりに迅速だったため、引きとめ工作も慰謝料をせしめる暇さえなかった。思いかえすに、あの女の臭い股を嗅ぎ続けたこの八年間は何だったのか。このまま一生タミエの世話をしながら、死ぬまで面倒をみるのだと漠然と考えていたのに、それを裏ぎられたかたちになってしまい、しばらく茫然自失の日々をおくっていたという。寒さの厳しい能登半島で、岩に砕ける日本海の荒波のさまが、そのときの己の心境をあらわしているように感じてむなしかったと、やすちゃんはビールを呑みながら語った。
とりあえず東京ならしごとにありつけると思い、その土地土地で働きながら路銀を稼ぎ、果てははんぶん浮浪者のようになりながらも、げんざいは道中で知りあいになったおとこと足立区にあるマンションでシェアハウスして暮らしている。
携帯電話の料金も支払えるようになったので、所持しはじめたそれでSNSに登録していたところ、それがもとでぼくとふたたび会うことができたという。
両親とはもう何年も顔をあわせていないらしく、やすちゃんはぼくが年賀状を出しつづけていたことは知らなかった。連絡先がわからないため、以前交友のあった旧友たちとも、いまは一切連絡をとっていないとやすちゃんは語った。
ぼくはやすちゃんの口許を見つめていた。やすちゃんは三日ほど髭を剃っていないのか、かつては見たこともない無精髭を伸ばしていた。
それでも久し振りに会えて、ぼくは嬉しかった。
以前とちがって、やすちゃんがいなくても、ぼくは何とか独りでやっていけるようになっていた。それでもやすちゃんと会えて、ぼくは遠い国を放浪していた仲のよい友人が、厳しい修行から今まさに帰ってきたように感じて(タミエさんから洗礼をうけたという意味では、厳しい修行から帰ってきたとも言えるかもしれない)、久しぶりにうきうきするような感触にひたっていた。
まあ、いろいろあったみたいだけれど。
これから昔のように、もどれるのかな。
やすちゃんも同じ気持ちだと思っていた。だからこそ、やすちゃんもぼくと何十年かぶりで会ってみるこころ持ちになったのにちがいないのだ。
「あたらしいしごとをはじめようかって思ってんねん」
と麦とろ飯を掻きこんでいたぼくに、やすちゃんがはやくちで言った。「格安のアジアふう居酒屋を開業しよって思ってる。外国人のコックも雇ってな。全国各地を放浪した、今までの経験をいかしてな」
「すごいな」とぼくは言った。「開業したら、ぼくも呼んでな」
「会ったばかりで申し訳ないんやけど」とやすちゃんはぼくの目を見ないで言った。「それにはどうしても金が必要やねん」
ぼくは口をもぐもぐさせて、ご飯を呑み込んだ。
「一ヶ月後かならずかえすから。二十万ほど用だててもらえへんかな。開業資金、ほんとうは足りてんねんけどな、かつかつやから、従業員への給料も払わんといかへんしな。まあ、抑えとして、一応あったほうが心強いかなって思って。三ヶ月すれば、店のほうも軌道に乗ってくるから、きっちり返すで。必要やったら、正式に銀行から借り入れもするし。ほんでもって、てーちゃんから借りた金は、ちゃんと利息つけて返すから」
ぼくは皿のうえのつくねを見つめていた。二十万であれば何とかならないことはない。妻もそう目くじら立てたりしないだろう。が、金額はさておき、なんだか眉唾のような話にも思えた。
厨房から威勢のよい調理師のこえがひびいた。平日だったけれど、店は混んでいた。
やすちゃんと再会して浮きたっていた気持ちが急速に萎えていくのがわかる。
やすちゃんはというと、困ったように首を垂れ、うつむいている。
ぼくは子どもの頃のかがやきを失ってしまったように見える彼の瞳を見つめていた。
しばらくしてぼくのひらいた口から出たことばは、
「ええよ」というものだった。「けど、利息はいらんよ」
ぼくは返済はそんなに急がなくていいとさえ言った。
店の喧噪のさなか、ぼくたちの会話はごくありふれたことばのように聞こえていたと思う。
「てーちゃんが俺の店の第一号の客や」ぼくが金を貸してくれるとわかり、嬉しかったのか、やすちゃんは眉じりをさげて言った。「でも、悪いから、ちゃんと利息はつけてかえすで」
ぼくはかぶりをふった。一抹の不安を覚えないではなかったけれど、やすちゃんの手伝いをできるなら、むしろ気持ちよく貸してあげると言えてよかったのではないかとぼくは思った。
ぼくはやすちゃんの住所をおしえてもらい、その日はそれで別れた。
四日ご、約束とおり彼の口座に二十万円を振りこんだ。
そのことをつたえると、
「ありがとう」
しばらくして、やすちゃんから礼をいうメールがとどいた。
ところが、そのメールをさいごに、やすちゃんからの音信がしばらく途だえた。ぼくもしごとのほうが忙しかったので、店の開業準備でばたばたしているのだろうくらいに考えて、そのままにしておいた。
つづく
執筆者紹介
にゃんく
にゃんころがりmagazine編集長。
X JAPANのファン。カレーも大好き。
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