writer/にゃんく
『坊っちゃん』は、私が思ったのは、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』とスタンスが似ているなあ、ということです。(村上春樹訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』しか読んだことがありませんけれど)
『ライ麦畑でつかまえて』(キャッチャー・イン・ザ・ライ)の感想は、外国文学のところにありますので、参考にしていただきたいのですが、この作品でも、主人公は周囲の人間とまったくうまくいきません。接する人間、接する人間、すべて齟齬をきたします。
『坊っちゃん』もそうです。坊っちゃんは四国に赴きます。四国が舞台です。でも、四国の人間を田舎者だと言って馬鹿にしているので、現地でまったくうまくいきません。
そうして、坊っちゃんには、東京に残した清という老婆がいます。
両親にはかわいがられなかったけれど、下女の清にだけは、坊っちゃんは大物になる、みたいなことを言われ続けて育てられます。
だから、大人になっても、坊っちゃんは、彼女や奥さんの存在はなくても、「清と一所になる、清と一所になる」と事あるごとに思います。
それは清がアイデンティティの拠り所だからです。大の大人が、普通なら若い女の子の尻を追い回すところなのに、こんな老婆と一所になる、と言っているのは、ちょっと奇妙で異常な感じがしないでもありません。でも、アイデンティティの拠り所ですから、清はとても大事な存在なのです。
『ライ麦畑でつかまえて』でも、主人公には、妹という存在がいます。 妹に愛情を注ぎ、いろんな場所へ連れて行きます。
日本文学で広く読まれているのは、夏目漱石と太宰治だそうです。漱石が長く読まれている理由は何処にあるのでしょう?
太宰治も、『津軽』は、育ててくれた乳母のタケに会いに行く話だったと思います。ここからは私の仮説というか、間違っているかもしれませんが、両親に愛されなかった子供が、乳母とか、下女とか、そういう人には、かわいがられて、胸の奥底に「いつか大物になってやる」
みたいなプライドを持ち続けて、それで成長して、周囲の人間とうまくいかない。そういう物語の類型が、長く読まれ続ける要素かもしれないな、ということです。読者も感情移入しやすいですしね。
つい味方したくなります。
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執筆者紹介
にゃんく
にゃんころがりmagazine編集長。
X JAPANのファン。カレーも大好き。
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