小説レビュー『風の歌を聴け』~青春の一片を、乾いた軽快なタッチで捉えた、出色のデビュー作

 

デビューした頃の村上春樹

 

 

 

writer/にゃんく

イラスト/矢野ハワイ

 

 

 

今回は、村上春樹(1949年生~)の小説『風の歌を聴け』のレビューをおとどけします。

 

 

『風の歌を聴け』は、1979年発表の、村上春樹のデビュー作です。
群像新人文学賞を受賞しています。

 

 

ぼくはこの作品をかれこれ4回以上は読んでいると思います。
なぜ4回も読んだかというと、あの村上春樹誕生の秘密が、この作品に隠されているのではないか、そんな興味があって読みました。
けれど、評価されているわりに、論評がムズカシイ作品でもあると思います。

この作品がなぜ良いのか、それをすっきり説明できる人はなかなかいないと思うんです。
ストーリーはないわけではないのですが、ブツギレ断章のようなストーリーが並列的にならべられているわけですし(そこから、重大な意味が立ち上がってくるわけでもない)、主人公が成長してどうなる、というふうな感じの作品でもありません。

 

 

まず、ストーリーを紹介します。

主人公の<ぼく>は、21歳の東京の大学にかよう大学生です。(生物学を勉強しているようです。)

途中、こんなふうな述懐があります。

<ぼく>は、少年のころ、無口でした。そのため、親に精神科の病院に連れて行かれました、そこで先生から、いろいろと質問をされた。(多くは、訳のわからないような質問です。)それから14歳になって、とつぜん無口だった<ぼく>は怒濤のようにしゃべり出しました、それから熱が出て、そのあとは、(怒濤のように喋るようなこともなくなり、)普通の青年になりました。……

とまあ、こんなふうなフィクションめいた話が、けっこう細かく語られていきます。
(あまりリアリティはありません。
生活感もありません。
これは、以後の村上春樹に共通する性質でもあります。)

 

 

そういうふうな内容が語られたあと、とつぜん時間は切り替わり、
<ぼく>はベッドのうえで、はだかの女と隣りあって寝ています。

その女とは、昨日会ったばかりで、女には<ぼく>と知り合ったイキサツの記憶がまったく抜け落ちていて、どうして自分が裸でベッドのうえで知らない男と隣あって寝ているのか不審に思い、<ぼく>に事情を説明するよう強く求めてきます。

 

そんな具合に、『風の歌を聴け』の展開はつづきます。

比喩が多用されていることなど、のちのちの村上春樹を思わせる部分は、すでに片鱗をあらわしはじめています。
また、ときどき、おもしろいエピソードもでてきます。
(そして、ときどきは、たいしておもしろくないと思われるジョークのようなものも出てきます)。

 

何度も読んでいると、作中、さりげなく、何気ないキーワード(「指が一本欠けた女の子」、など)やアイテムが登場し、それらが、断片のような章と章のあいだをむすぶ役割を果たしていることにきづきます。

 

講談社文庫のp73には、のちにノーベル文学賞を受賞して話題を呼ぶことになる歌手のボブ・ディランの詩が登場します。

<ボブ・ディランの「ナッシュヴィル・スカイライン」が聴こえる>。

 

作品自体は、かったるいと言わなければなりません。
ぼくは、以前からそう思っています。
リアリティのない記述も散見されます。
その頃の文学の伝統に背をむけるように、わざと現実感を希薄にさせています。

たとえば、
「ぼくと兄はとてもよく似ていた。
それは、ぼくと兄が交代で何十年も、父の靴を磨き続けていたからだろう」
といったような内容です。
靴を磨くことで、兄弟が似てくるはずもないのですが、そんなことを言ってトボけています。

それが、この作品の、一種の味になっています。
現実臭さを消して、ちょっとしたオトギの空間をつくってみせます。

 

そして、
ぼく(にゃんく)が、今の今まで謎だったのは、どうしてこの小説のタイトルが、『風の歌を聴け』なのか?
ということなのでした。
長年、このタイトルに引っかかってきました。
本文中で、『風の歌を聴け』というコトバは出てこないはずですし、タイトルの意味を説明する箇所も、もちろんありません。

 

2016年、ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞することに決まりました。

 

その年の12月11日、何げなく新聞を読んでいると、こんな広告にお目にかかりました。

 

彼(ボブ・ディラン)が受賞した時、この歌が最も流れた。

 

 「風に吹かれて」

どれだけたくさんの道を歩き回れば

人は一人前だと呼ばれるようになるのだろう?

どれだけ多くの海を越えていけば

白い鳩は砂浜で羽根を休めることができるのだろう?

どれだけ大砲の弾が撃たれれば

もう二度と撃たれないよう禁止されることになるのだろう?

その答は、友よ、風に吹かれている

その答えは風の中に舞っている

どれだけ長い歳月が経てば

山は海に削り取られてしまうのだろう?

どれだけ長く生き続ければ

虐げられた人たちは晴れて自由の身になれるのだろう?

どれだけ人は顔をそむけ続けられるのだろう?

何も見なかったふりをして

その答は、友よ、風に吹かれている

その答は風の中に舞っている

何度見上げたら

人はほんとうの空を見られるようになるのだろう?

人々が泣き叫ぶ声を聞くには

二つの耳だけでは足りないのだろうか?

どれだけ人が死んだら

 

あまりにも多くの人たちが死んでしまっていることに

 

気づくのだろう?

その答は、友よ、風に吹かれている

その答えは風の中に舞っている

 

(歌詞:中川五郎/CD『ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・ボブ・ディラン』より)2016年12月11日朝日新聞から引用)

 

 

 

ぼくはこの詩をこのとき初めて読んだのですが、
「おやっ?!」と思いました。
これって、村上春樹の小説「風の歌を聴け」そのものじゃないかと。
似ているように思いませんか?
非難しているわけではありません。
たぶん、おそらく、村上春樹は、ボブ・ディランの詩が好きで、いつも聞いていた。
そして、その詩から得たイメージ・言葉を、自分で作り替え、創作した自らの処女小説のタイトルに付けたのでしょう。
「風に吹かれて」

「風の歌を聴け」

 

本人に聞いたわけではありませんから、断言はできませんが。
でも、村上春樹は、よく自分の小説に、ボブ・ディランの詩や曲を登場させるようです。
「世界の終わりとハードボイルト・ワンダーランド」でも、終わり近くに、ボブ・ディランの「激しい雨」という曲が出てきます。

 

村上の小説も良いですが、ボブ・ディランの詩も、良いものですね。

 

 

 

 

 


矢野ハワイ

1963年、東京生まれ。あたたかみのある絵で人気の似顔絵師さんです。

 

 

にゃんく

1979年、大阪生まれ。
カレーとXJapanが大好き。

 

 


風の歌を聴け (1979年)

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