『鏡痛の友人-③-』山城窓~プロ級作家が新境地を開いた超注目作!

鏡痛の友人
-③-

山城窓

 

 

 

 

 

 翔太と付き合い始めたのは高三の春だった。席が隣になって消しゴムの貸し借り、教科書の見せ合い、「黒板、下のほう、何て書いてるの?」とか、たわいないコミュニケーションしかなかった気がしたが、唐突にデートに誘われて、すぐさま交際を申し込まれて、あっけなく私はそれを受けた。翔太は野球部のエースで女子に人気があった。
 翔太はやや小柄で身長は百七十足らずであったが、ナックルボール一つでエースの座に上り詰めていた。ナックルボールとはスピードのない無回転のボールで、空気抵抗によってゆらゆら揺れて落ちるボールだ。不規則な変化にバッターは対応できず、キャッチャーでさえ捕るのが難儀で、投げたピッチャーもどこにどう変化するかわからないそうだ。そのボールについて翔太は「打たれるときは打たれるけど、打たれないときはまず打たれない」と当たり前のことをいった。最後の大会でも一回戦では相手打線をきっちりと抑えて、二回戦ではあっさりと打たれて、彼は「今日は打たれる日だった」とそっけなく語った。
運任せ、風任せみたいなところがあるせいなのだろうが彼は努力を惜しんでいた。練習をサボることはなかったようだが、それ以上のことをすることもなかったようだ。「がんばってもそんなに結果も変わらない」らしい。だがもっとできること、すべきことがあったんじゃないかと思えた。終わってから言うのもどうかと思ったが、言わないのもどうかと思ったので結局言ってみた。彼はそれについて考えたくないようで「二組の柳沢ってさ、蚊に刺されやすいんだって」と脈絡なく話題を変えた。
 粗野だけど、みんなひたむきで純朴でっていう世界を思い描いていた私は拍子抜けしたでもないけど、気持ちの置き所に迷った。
 彼は大学でも野球部に入ったがまもなく肩を壊して辞めた。剛速球をチームのために放り続けて、連投に継ぐ連投の末に肩がいかれちまったとかなら、気持ちも揺すぶられそうだが、まるでそうでなかったので、何も揺すぶられなかった。なんでも引越しのバイトで洋ダンスを運ぶときにピキッときたそうな。
そして肩の違和感だけが残った。痛みこそすぐに引いたが、そこに肩があるんだってことをことあるごとに感じてしまうような、しっくりこない状態で、彼が腕を上げるときは冷や冷やした。人や塀が彼の肩にぶつかるたびいちいち軋みが揺れて響いた。嫌になって別れた。
「かわいそう」そこまで話すと映子はそう呟いた。デパートのドアを入ったところにベンチと自動販売機があったのでちょうどいいからと私たちはそこで缶コーヒーを飲んでいた。
「だって」映子が続ける。「肩を壊して野球ができなくなって、そのうえ彼女にまで逃げられたら……あなたはどうして……」
「あのね」映子の言葉を弾き飛ばすように私は続ける。「別にそれだけじゃないのよ」
 仕方なく私はかいつまんでいた部分を改めて話す。翔太とはセックスがあまり良くなかったのだ。友達に聞けばそれはそれは気持ちよいもののように聞くが、自分が不感症なんだろうかと思えるぐらいに、翔太とのそれは快感不足だった。私は別にこんなことやらなくても全然いいなって思えていたが、翔太は頻繁にそれをやりたがった。それがまず面倒だった。思えば私は翔太しかそれを試していないことだし、他の人とならもっと気持ちいいんじゃないだろうか、って思って一度試してみた。ラブホテルに一人で入り、壁際で隣の部屋の営みを待った。それが始まると噂に聞くような天にも昇るような心地ではなかったが、翔太と交わったときよりはずっと良かった。他の人に直に抱かれてみたくなって別れた。
「それはそれでかわいそう」と映子は呟いた。「あなたはどうして……」
「それだけでもない」と私は仕方なく話す。
 翔太は偉そうなのだ。相手の鼻先辺りの高さに水面を感じているのか自分をそこより上に持っていかないと息が苦しいようで、無理やり自分を上にしようとするのだ。別れ話を切り出したときも「別れたい、っておまえそれ逃げてるだけじゃねえか」だとかほざくし、「すぐに別れるとかじゃなくてさあ、直して欲しいところがあれば言えばいいじゃん。言ってくれれば直すから」だとか吐かしてきた。そう言うなら直してもらおうかと思って「押し付けがましい」とか「偉そう」だとか伝えた。そしたら「おまえだって最初はもっと大人しかったじゃねえか!」と愚にも付かないことを喚き立てるばかりで決して変わろうとはしなかった。
「でも……男の人ってそういうとこあるみたいだし、ちょっとぐらい偉そうなほうが男っぽくて私は好きだな」と映子。
「何よりもあいつ馬鹿なのよ」と私。「あっち向いてホイで必ず負けるの。指の動きにつられて顔も動いちゃうのよ。つられまいって言い聞かせてても。そういう男って絶対そのうち浮気すると思うな」と持論を展開がてら、私は話を続ける。
 そりゃ私だってちょっとぐらいの馬鹿ならかまわない。誰だってどこか馬鹿みたいなところはある。でも翔太は馬鹿なのに、自分が馬鹿じゃないことにしようとする。馬鹿だと思われることが恐ろしいみたいで。見かねて一度、馬鹿を誤魔化す術を教えてみた。相談されて判断に困ったときなんかには「ケースバイケースで」とか「フレキシブルに」とか言っておいたら馬鹿に見えないよって。どんなことでも一概にはいえないものだし、往々にして断言するのはリスクが高いものだからって説明して。でもそれからそればっかりいうようになった。しかもそれを教えた私相手にまで言い出した。
「それでも」映子は納得していないのか悲しそうな目でいう。「まだマシだと思う」
「何と比べてマシなのよ?」と私が言及すると、
「私が今まで付き合った人と比べて」と映子は話し出した。
 映子はモテるらしい。みんな映子に自分を見て引き寄せられる。でも今は彼氏はいない。結構の数付き合ってきたが、長続きしない。すぐに映子のほうで嫌になる。男は映子を自分と思うあまりすぐに自分をさらけ出す。で、すぐに嫌なところを見せてくる。猫を蹴飛ばす人もいた、路上にゴミを捨てる人もいた、映子の好きなミュージシャンの悪口をいう人もいた、弱者をいたぶる人もいた。
「わかるけどさ、嘘や誤魔化しがないって点はいいんじゃない?」と私が訊いてみると映子は顔をしかめて続けた。
「何が嫌ってね、そういう嫌なところを私も同じように持っていると思われるのが嫌なの。実際こっちが非難するとね、『なに言ってんだよ、おまえも同じじゃないか』って顔するの。みんな私に映った自分の姿ばっかり見て、私のことなんか見てないの。私のいうことなんかちゃんと聞いてもくれない」
 私は缶コーヒーを一息に飲み干して、缶コーヒー二本で二百四十円だから今日は四十円の赤字だなって思って提案する。
「そうそう、次のときはさ、何か売りましょう。鑑定料はそんなに取れる気しないしさ」
「……どういうこと?」と気を取り直すように映子が尋ねる。
「なんかさ、良くないお告げみたいなこといっておいてさ、でもこれがあれば運気が上がるとか災いが遠ざかるとかいって、ご利益のありそうな何かを売るの」
「何かって?」
「できたら霊験あらたかな感じの物がいいんだけど、別になんでもいいわ。ほら貝でもよかったわね。ああいうの売っちゃおう。あなたの家ってなんかいろいろありそうじゃない?」
「ああ、あるかもしれないけど……」
「じゃ、また今度あなたの家行くね。いろいろ探してみよ」

 

 中三日で映子に会いにいく。約束は一三時だったから、午前中はスーパー銭湯へいってようと思って早くに出た。けれど銭湯の玄関口には「準備中」の看板のうえに「大変申し訳ありませんがボイラー故障のため、お湯ができあがるのは一三時ごろになる見込みです」と急遽拵えたであろう手書きの貼り紙があり、従業員はそれと同じ内容を慌しく話し、ご迷惑おかけしますと次回使える割引券をくれた。そして時間が余った。「食事処と休憩処はやってますので、入場は可能です」とのことだったが、入場だけでもお金は掛かるし、入場したところでお湯が沸くころには映子の家へ行かなきゃだしで、私は銭湯を離れてそこらをぶらぶら。ハローワークに行こうかとも考えるが今日はハローワークカードを持っていない……
約束の時間を決めたときの映子の口調を思い出してみる。「何時でもいいけど……」って調子で、私が「じゃあ一三時ね」って決めた。何時でもよいのだな、と思って映子の部屋へ向かった。一度電話をしてみたが、映子は出なかった。まあどうにかなるだろうと映子のマンションまで来た。
 階段を上がって外廊下を歩いて、まもなく体がざわついた。かまわず進むと足がふらついた。鋭い快感が乳首から走ってバッグが手から零れ落ちた。すぐに屈んでバッグを拾ったが、膝ががくがくした。まだ午前中だっていうのに、誰かが交わっているようだ。
 こんなところで悶えているわけにもいかないので私はそのトロトロとしていて、それでいて強い快楽を断ち切ろうと、内股になりながらも踏ん張って歩いた。一つドアを過ぎても、快感は収まらない。その次のドアを過ぎても収まらない……収まらないどころかそれは増しているようだ。まさかと思い進むが、映子の部屋の隣のドアを過ぎてもそれは高まるばかりで、ふらふらになって映子の部屋のドアの前に辿り着いた。そこでひときわ分厚く快感に覆われて膝が崩れた。交わっているのは映子だと気付き、とっさにドアに背を向けた。胸までぐらいの高さのコンクリートの外壁にしがみついた。力を振り絞って顔を上げて、外を見下ろすが、そこから歪んだ顔をのぞかせていたら、いまここで後ろから犯されていると思われそうなので、顔はどうにか引っ込めた。力を振り絞ることもできなくなってその外壁にしなだれかかるように蹲った。
 涎が垂れてる。口が開いたままだ。逆に目は開けられない。全身が不意にびくつく。誰も来るな。絶対に駄目だ。なんだって映子はこんな時間から性行為を? 自分でじゃない。あちこち同時に触られているし、挿入されているのは確実に男性器だし。彼氏はいないといってたのに。もう出来た? すぐに抱かれた? そしてこんなに気持ち良く? 
 声も出る。口の内側に留めようと思っても、零れて流れていく。どうもできない。股間もしとどに濡れてショーツはもう駄目だ。どうしたらいい? 大丈夫か? 人さえ来なければこのままでも。誰もいないところでならこのまま犬みたいにむさぼっていられるのに……
 ドアが不意にギイと開く。ギクッとする。首は下を向いたまま横目で確認する。映子の隣の人のようだ。男性か? はっきりは確かめられない。今目が合えばたぶん崩れる。見るな、来るな、放っておけ、早くどっかにいけと祈るが、「大丈夫ですか」と声を掛けられる。「大丈夫!」追い払いたい一心で怒ったような声を出してしまって申し訳ないと思うが、今はこれが精一杯。薄目で確認すると、気圧された様子で、その人は逃げるように立ち去っていく。安心して緩んだのか、映子の性交が山を迎えたのか、私の声も表情もまるでかたちがなくなりドロドロになる。膝をついてお祈りでもするように四つん這いになり、コンクリートの地面が固い。口から涎がゆっくり糸を引き、背中に温かいものが流れる。
 しばらく立ち上がれない。寝そべりたいぐらいだが、そうもいかない。息は整いだす。理性が返ってくる。昔から時々はこういうこともあった。誰かの快感をうっかりとその身に引き受けてしまうことは。だけど脱出に失敗したのは初めてだ。それほど捉えられていた。さてどうしよう? 今映子の部屋に押しかけたら邪魔者扱いされそうだが……見てみたい。映子の彼氏を。私を激しく身悶えさせたはずの男を。
 充分に間をおき、身なりを整え、砂っぽくなったブラウスの袖をサッサと指先で払う。整えたはずだがお尻の方でスカートの裾がめくれ上がっている気がしてそれを押さえつける。ブラウスの肘の辺りは何度払っても砂っぽい。気のせいだ、と気付いていても、なんかどうも気になる。気にしていてもキリがないので、インターフォンを押してみる。なかなか反応がないが、映子も服を着ているところかなと想像しながらのんびり待つ。想像の映子が身だしなみをきちんとしたところで、再度インターフォンを押す。
やがてインターフォンのスピーカーが、はい、と答える。映子、ごめん、私、朋子。ちょっと早く来ちゃったの。スーパー銭湯にいったんだけどさ、ボイラー故障でお湯ができてなくて。などとインターフォンのマイクに向かって説明すると、ちょっと待ってと言い置き、まもなく映子はドアを小さく開ける。狭い隙間から上気した顔を覗かせる。そうしてことが終わったばかりの私同士で向かい合う。
「ごめんね」と改めて謝罪から入る私。「予定あるかもしれないとは思ったけど、とりあえず行っちゃおうって思ったの」
「ううん」と映子は何事もなかったかのように首を小さく振る。「いいんだけどね、準備するからちょっと待っててくれる?」
「あっ、急がなくていいのよ」と私は彼女に触れ合いそうなほど顔を近づけてささやく。「わかってる。彼氏来てるんでしょ?」
 映子は恥ずかしそうに頬を赤らめる。そりゃ恥ずかしいでしょう。ついさっきまで激しく抱かれていたんだから。ふと、私も一緒に身悶えていたことに感づかれそうな気がして、私は急いで冷やかしに掛かる。「この間は彼氏いないっていってたのにね。ねえ、どんな人? よかったら会わせてよ」
 映子は何も答えず俯く。困ったような顔だがどこか誇らしそうでもあって、もうちょっと攻めてもいいなって気がして、「いいから見せなさいよ」と私はドアを広く開いて中を覗き込もうとする。
「ちょっとだめ」と映子は慌ててドアを狭める。私はぎくりとする。部屋には特に何も見えなかった。ただ肩に違和感を感じた。右肩の違和感。身覚えのある違和感……
「翔太?」どうして翔太がここにいるんだ?と混乱しながら私は尋ねる。
 目を逸らしながら映子は「別に」と呟く。何が「別に」なのかわからない。いつの間にそうなったのかもわからない。何よりどうして翔太とやってあれほど気持ちよくなれたのか? そんなに気持ちいいわけがないのに。…なんなんだこれは? 小さな虫たちの不規則な蠢きが、ありもしない私の羽やヒレに感じられてぞわっとする。
「わかってるのよ」念のためカマを掛けて確かめてみる。「翔太でしょ?」
 観念したようにコクンと映子は頷く。言い訳のように事の次第を語る。
「この前会った次の日にね、駅で偶然会ったの。『ああ、昨日の朋子の友達だね?』って声掛けられて。で、あなたのことを相談されてさ、ゆっくり話して、かわいそうになっちゃって。その次の日にも約束して会って。昨日もまた会ってそれで……そのまま……」
「ああ、そうなんだ。そっかそっか」意味のわからない笑顔で私は頷きながらいう。「まさかそんなことになってるとはね。そこまではわからなかった。ごめんね。じゃあ、今日は無理だね」
「あ……午後からなら」
「いいよいいよ、無理しないで。それじゃ」
 映子ごと部屋に押し込むようにドアを閉める。平静を取り繕ってはいたが平静を取り繕おうとしていることも見透かされそうで私は焦っていた。ドアを閉めてもまだ映子と繋がっているようで、私はさっさとその場を立ち去る。繋がりを引きずるようにして私は駆ける。足音は鳴らさず、できるだけ速く。
 自分の部屋に帰ってから、止まっていられない私は、スーパー銭湯の回数券でそこの電話番号を確認して、迷わず電話を掛ける。「お電話ありがとうございます。ほあほあの湯、オオイシでございます」とハキハキした声が耳に届く。私は感情に化粧を塗りたくって丁寧に告げる。「お忙しいところ失礼いたします。アルバイト募集の貼り紙を見ましてお電話しました。応募したいのですが、担当の方おられますか?」

 

 ほあほあの湯で勤めて五日。「研修中」の名札はまだ外せないけど、一つ一つの仕事は単純な作業ばかりだから、もうだいぶ慣れて余計な緊張はしなくなった。
フロントは楽だ。入場券の自動販売機があってお客さんが券を買って持ってくるから、それを受け取り「いらっしゃいませ。ごゆっくりどうぞ」とにこやかに微笑めば済む。回数券を差し出されれば「いつもありがとうございます」が挨拶に加わる。瓶入り牛乳やマッサージ用の塩やらを販売することもがあるが、その頻度は知れたものなので、ゆったりとこなせる。木目調の壁や床は目に優しくて、帰りのお客さんはさっぱりと心地よくしてて……思わず知らず口元が綻ぶ。
 トイレ掃除があるのが誤算だ。でもまあ仕方ない。何もかもすべてはまることなんかそうはないんだから、我慢しなけりゃいけないこともある。ってこれ映子がいってたことだ。映子を思い出して気持ちが毛羽立つ。とっさに頭を振る。そしてそんなふうに忘れようとしている自分に苛立つ。これじゃまるで私がふられたみたいじゃないか。私が翔太に浮気され、映子に寝取られたみたいじゃないか。こんなことになりたくないから、散々別れたいって言ってきたのに。あの馬鹿がそれを承諾しないから、私がこんな惨めな気持ちに……
 先に次の相手を見つけておくべきだったんだ。そうすりゃこんな気持ちにならずに済んだんだ。でも私は男の人と話すときに彼氏をいないっていつもはっきり言えなくて、「いない」って言っても「いる」って言っても嘘になる気がしてなんか曖昧になって。男の人はちょっと様子を見ようみたいな感じになっちゃって。様子見るぐらいならいいけど、「もったいぶって面倒な女だな」と思われたりもたぶんしてて……
 落ち着け。私が翔太に別れたいっていった時点で本来終わっているのだ。とっくに切れているのだから、その後に別の女とどうなろうと私には何も関係ないし、惨めなことなど何もないのだ。と、私は理屈に逃げる。が、そこに肩の違和感が立ちはだかる。理屈では切れていたはずでも肩の違和感で私はあいつとつながったままだ。それに私はあの馬鹿に恐ろしく身悶えさせられた。いまだ体に余韻が残るほど。そうだ何よりあれがなければ……
 仕事に励む。トイレ掃除っていっても今のところそんな強烈な汚物を目にしていない。なんてことない。便座に正体のよくわからないシミを見かけることもあるが、中性洗剤と不織布で片がつく。あとはトイレットペーパーの補充とか、下駄を揃えるとか、洗面所の水滴や鏡をタオルで拭くだとか、ちょうどいい作業だ。何かを思い出さずにいるには。
 洗い場へ回りシャンプー、リンスの交換を速やかに行う。放り出されているシャワーヘッドや洗面器を所定の位置に戻す。湯に使っているお客さんから、身の解されるような心地よさをほのかに感じる。いいお湯だなあと和らぎながら仕事に励む。いったん事務室へ戻り、作業確認書を手に取る。済ました作業の欄に自分の名前を記入して、それからリネン室へ移る。サウナのマットを十六枚準備する。マット交換の時間だ。一番の難敵と思われていたサウナのマット交換だが、今のところつつがなくこなしている。最初の三日間は先輩のニシモトさんと二人でだったので、あまり時間も掛からなかった。それにサウナに入る際に「失礼しまーす、マット交換入りまーす」と声を掛けると、大半のお客さんが退出してくれて、限界寸前の熱苦しさを私に届ける人はいなかった。昨日も同様でそういう人はいなかったから、私一人でだったけど、さほど苦しまずに済んだ。
 サウナのドアを開ける。熱気がすぐさまムアッと押し寄せる。息苦しいほどに。中で誰か滅茶苦茶我慢している。昨日までのように気を利かせて退出してくれるだろう、と高を括って、「マット交換失礼しまーす」と蒸気の向こうに声を送る。出て行く客がいる。私は「ありがとうございます」と挨拶しつつ、奥まで進んでマットを積み重ねたままいったん全部下に置く。……限界寸前の熱苦しさは去っていない。残っている客は三人だが……あの人だ、と苦しさの送り主を目で追う。そこそこ年配だがアスリートのような引き締まった肉体の女性が階段状の座席の一番上の中央に、支配者のごとく君臨している。熱さに相当追い込まれているはずなのに、それに打ち勝とうとしているのかその顔はやたら凛々しい。
 私は一度サウナの外に出る。マット交換を宣言してしまった以上、速やかにことに当らねばならぬのだが……きつい。そもそも私じゃなくてもきつい作業なのに、私はこの限界近くから始めることになる。気が遠くなりいったんドアを閉める。他の人には「そのぐらいの熱さで」と思われそうだが、私の場合はいきなりなのだ。軽んじてくれるな、と言いたいところだが、言っても詮なきことだ。ニシモトさんに「自分蒸し暑いの苦手なんスよ、代わってもらえますかあ」とでもいえば「辞めちまえ」となるだろうし。なんせニシモトさんには私の特性を話せていない。だってあの人は健康丸出しでいつもどこも痛くも痒くもなくて。それを感じていない人に私の特性を信じてもらうのは難しくて。と、思ったところで目が眩んだ。今はドアを閉めることで熱気は封印されているのだが、暑苦しさは漏れ出しているようだ。早く行ったほうがいい。ひとまず冷却作業のためにあのアスリート然とした女性に向かって放水でもしたいところだが、そんなことしたらクレームに発展する可能性もある。だがしないなら私の身が危うい。せめてあとで水風呂に飛び込むという手段を取れればよいのだが従業員である私にそれは許されていない。自分見積もりでいえば私の作業時間は三分が限度。その間に現在のマットを撤去し、新しいマットを敷き直す。できるだろうか? せめて勇猛果敢に飛び込むことでこの国を救えるということであれば覚悟も決まるというものだが、これは国家の一大事ではなくサウナのマット交換。……あとにしよ。あの人もぼちぼち出るだろう。
 いったん更衣室に戻る。更衣室のモップ掛けを先にする。ふと肩に違和感を覚えて翔太を予感し顔を上げるが、目に映るのは女性のみ。それはそうだ。ここは女子更衣室で野郎がいるわけもなく、肩の調子が悪い人ぐらい他にもいることだろうし、どうして私はまたあいつをいちいち思い出してしまったんだと苛ついていると、レンタルタオルの回収ボックスの交換を終わらせたニシモトさんがふら~と私に歩み寄る。「サウナのマット交換済んだの? サインしてなかったけど」と作業確認書の空欄についていきなり突っ込まれる。「すぐやります。すっごく混んでたんで後回しにしました」と出まかせで答えると、「そうなの?」とニシモトさんは不思議そうではあったがそのままふら~と立ち去ってくれた。
 さっさとサウナに戻ったほうがよいかもしれないと思ってサウナの方を振り返ると、うっかり着替え中のお客さんにぶつかりそうになった。「すいません」とひっくり返った声を発すると、幸いそのお客さんは気が弱いのか小さく首をふって目を逸らして、それだけのことで済んだからそれはまあよかったのだけど、よく見ると、このお客さん男だ。
 体型の出にくいAラインのワンピースで、八〇デニールはあるであろう厚いタイツを穿いてて。顔は小顔で、ファンデーションだけだろうがメイクも施してあって。よく見ると髪の毛はテカテカしててウィッグっぽくはあるけど、ただすれ違っただけなら女装だとは気付かないであろう男だ。それが翔太でなかったなら私も気がつかなかっただろう。
しかし……何をやってんだ、こいつ? 対応できずに私はしばらくぼんやりと女装の翔太を見ていた。女装すれば女湯をのぞけると考えたんだろう。で、いざ更衣室に入ったら服を脱ぐわけにはいかないのでまごついていたのだろう。やっぱり馬鹿だ。先が見えなさ過ぎ。
 ときどきこういう輩がいるとは聞かされていたが、それが元カレとは、とあっけに取られながらも、さてどうしようと頭をもたげる。知り合いだと知れたら私も共謀だと思われそうだ。
 じっと見ている私が不自然だったのか翔太もやがて私に気付く。はっきりと目を合わせて、凄むように呟く。「なんでおまえがここにいるんだよ?」
 それはこっちの科白だ、と今さら言う気にもならない私は、
「出てけ」と声を潜めながらも翔太を脅す。私はサウナに行かなければならない。「見なかったことにしてやる。面倒だからさっさとここから出てけ」
「わかったよ……」と弱々しく翔太は荷物をまとめて出て行った。
 こんがらがった私はもつれを断ち切るべく、やけくそでサウナのマット交換へ挑む。例のアスリート然とした女性はずっとそこで粘っているのか、あるいはいったんは外に出たのかわからないが、同じ場所に居座っていて、その暑苦しさはすぐさま私を捉えた。朦朧としながら下の段から新しいマットに換えていくと、気を遣ってかそのアスリート女はすぐに交換の済んだ下の段へ移動してくれたが、退出はしてくれなかった。アスリート女から届く苦しさは勢いを増すばかりで、自分の体で直接に味わっている苦しさも増しているはずで、それらの区別も付かなくなって汗も絡まるように流れて。見かねたのか「大変ですね」とアスリート女が声を掛けてくれて、そう言うなら今すぐにここを出てくれないかな、とは思うけど、愛想笑いを返すぐらいの分別は残ってて、結局は根性で乗り切る。
 交換した古いマットを抱え、「失礼しました」と声を振り絞ってサウナ室を出た。出たはいいが頭がぐらあ~と眩んで倒れそうになる。せめて水風呂に飛び込めればって思うがそうはいかない。そうはいかないが、水風呂に飛び込んでいる人のそばへ行くと、ひんやりとして少し救われた。

 

 

 

つづく

 

 

 

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作者紹介

山城窓[L]

山城窓

 

1978年、大阪出身。男性。
第86回文学界新人賞最終候補
第41回文藝賞最終候補
第2回ダ・ヴィンチ文学賞最終候補
メフィスト賞の誌上座談会(メフィスト2009.VOL3)で応募作品が取り上げられる。
R-1ぐらんぷり2010 2回戦進出
小説作品に、『鏡痛の友人』『変性の”ハバエさん”』などがあります。

 

 

 

 

 

 

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