『寝ぐせのラビリンス②』山城窓

寝ぐせのラビリンス②

山城窓

 

 

 

あれから三年が過ぎたというのに、僕はまだそんな夢を見る。その夢を見た朝は、最初から気力がひしゃげている。そして今日の場合はそこに春先のだるさまでもが重くのしかかってきた。このまま眠っていたいけど、曲がりなりにも社会人になってしまった僕は仕方なく起き上がる。惰性的に顔を洗い朦朧と鬚を剃る。剃りながら御座なりに左頭部の寝ぐせを直す。殆ど無意識に朝食を食べて、新聞で昨日のスポーツの結果と今日の天気を確かめる。
家を出る前に寝ぐせが直ってないことに気付くが面倒臭いから放っておく。いつものことだ。髪が堅いのか僕の寝ぐせはなかなか直らない。それでもいつも昼を過ぎるころには気にならない程度には落ち着いている。そもそも僕の仕事は殆どまともに人と関わることがない。輸入品のかゆみ止めの薬の重さを量ったり、その容器の蓋の閉まり具合を確かめたり、有効成分の含有率を計測したり……いわゆる品質管理というやつだが、僕はこれを一人で検査室に籠もってやっている。そんなんだから髪型に気を使おうとも思わない。この仕事は単純で退屈な筈だが、僕はどういうわけだかこの仕事を丸一年飽きもせずに続けている。こういう仕事が好きなわけじゃないが、他のことをやりたいとも思わないし、たぶん他のことなんか出来ない。
馴れきった仕事を確実にこなし、昼食を休憩室の隅で一人で食べる。嫌味なぐらいに味が薄いコンビニ弁当を食べ終えてから、僕はテレビをぼーと見つめる。その時、不意に
「やっぱり寝ぐせがついてる」
と背後から声が聞こえた。振り返ると、事務の岸井ユミカが何らかの実験の結果を確かめるような目で興味深そうにこっちを見ている。どうやら僕のことを言っているようだ。僕は曖昧な表情で左頭部の髪を撫でる。そういえば寝ぐせがまるで直っていない。検査室では髪の落下を防ぐためのフードを被ってもいたのだが……その髪は重力に逆らうように跳ね上がったままだ。とりあえず僕は形式的に苦笑いを浮かべる。ユミカは好奇心に導かれるように僕の前の席に座った。
ユミカは同僚ではあるが、仕事上ほとんど接点がない。はっきり言ってユミカがどんな仕事をしているのか知らないし、たぶん向こうも僕の仕事の内容を詳しくは知らない。ただ時々、足りなくなった用紙を補充してくれていたり、検査室の整理をしてくれていたり、事務的な報告をしてくれたりする。そんなんだから彼女がどういう人間なのかはよく知らない。わかっているのは、彼女は僕より三つばかり年下だということ。そして、この会社では僕より二年ばかり先輩だということ。そのぐらいだ。
そんな彼女だが、どういうわけだか最近僕に近づいてくるようになった。ちょうど昨日は頼みもしないのに肩をマッサージしてくれた。そのマッサージは彼女が美容師の友達から教わったという、美容師独特の両手を合わせてカパカパと叩いてくるものだったが、彼女は不器用なのか、あまり気持ちのいいものではなかった。
少し長めのストレートヘアーを触りながら、彼女は僕の寝ぐせをしばらく見つめていた。それまであまり気にならなかった寝ぐせが急に恥ずかしくなった。
「そんなに気になる?」と僕は訊ねた。
「あなたはどういう人なの?」と彼女はマイペースに質問を発した。
「どういう人って?」
「私あなたのことをよく知らないから」
僕は値踏みするように肯いてから答えを探した。漠然とした質問に対して生まれた答えはやはり漠然としたものだった。
「『自分さえよければそれでいいのかよ』ってよく言われる。そういう人」
彼女は何かを確かめるようにふんふんと肯いた。
「君はどういう人?」と僕も同じ質問を返してみた。
「『それならそうともっと早く言ってくれよ』ってよく言われるわね」
それならそうともっと早く? わかるようなわからないような…
「それで」僕の思考を蹴散らすようにユミカは唐突に訊ねる。「どうする気なの?」
「何を?」
「その寝ぐせよ」
「寝ぐせ?」
「直すの? 直さないの?」
ユミカの口調はどういうわけだか深刻なものだった。他人が見たら僕らは別れ話でもしているように見えるかもしれない。
「別に……そのうちに直るよ」
「直らないわよ」と確信に満ちた表情で彼女は言った。
「直らない?」
彼女は深く肯いた。一体この娘は何を言ってるんだろう?
「ごめん」と彼女は自分の腕時計を見て急に言った。「私もう行かないと。それじゃこのことはまた明日ね」
そう言って彼女は早足で休憩室を出て行った。……このことはまた明日? 明日もまた僕の寝ぐせについて話すっていうのか? 僕の寝ぐせが明日までずっと直らないとでも思っているのだろうか? 見た目はそこそこ可愛い娘だが、どうも頭の具合が良くないらしい。

 

業務を終えてから、帰りがけにトイレの鏡で髪型を確認してみた。仕事に没頭している間は気がつかなかったが、僕の左頭部の髪は天に向って跳ね上がったままだ。ヘアスプレーでも付いているのだろうか? しかし僕はそんなものを持っていない。どこかで糊のような何かが間違って付いてしまった? それにしては、まるで粘り気は感じられない。そう…ただの寝ぐせだ、これは。
ぼーと車を走らせて僕はとりあえず家に帰った。駐車場からアパートまでの五分ぐらいの道が不思議と遠く感じられた。どうしてだろう? 疲れてるから? それとも寝ぐせのせいか? もうよそう。寝ぐせなんか気にしなければ気にならないんだから……
ふと気がつくと、すれ違う男が僕の髪を興味深そうに眺めている。そんなに気になるのか、これは? いつもはそんなこともないのに。通り過ぎてから、もしかして僕の知っている奴だろうか、と思って振り返ってみると、その男も僕の方を振り返って何かメモを取っている。被ったキャップの陰で顔がよく見えないが、どうやら男は赤の他人だ。そして男はそ知らぬ顔で立ち去る。何なんだろう? 気にし過ぎか? 別に僕のことをメモしたわけじゃないだろう。僕は特に犯罪も犯してないし、危険人物でもないはずだ。わざわざ誰かにマークなんかされていないだろう。
微かに苛立ちを覚えながらシャワーを浴びた。とりあえずこの寝ぐせを直せば少しは気分もすっきりするだろう。そう思っていた。シャワーを浴びればいくらなんでも寝ぐせは直る。そう信じていた。しかしその期待も信頼もすぐに打ち砕かれることになった。僕の寝ぐせは勢いよく吹き出る水流に負けじと毅然と天を指している。
シャンプーもリンスも僕の髪型には影響を与えない。シャンプーは汚れを落とし、リンスはコンディショニングの役割を果たしている筈だが、それらが洗い流された後の髪は何事もなかったかのように跳ね上がったままだ。
風呂を上がり、バスタオルで髪をいつもより丁寧に拭く。そして鏡の前に立つ。寝ぐせに変化は見られない。手で押さえれば、それは一時的には大人しくなる。しかし手を離せばバネのように鋭く跳ね上がる。髪を手で押さえたままドライヤーを掛けてみる。しっかり乾かしてから、手を離す。髪はすぐに空に向って跳ね上がる。結果として…苛立ちは余計に増してしまった。
夕食を食べる。食器を洗う。テレビを見る。本を読む。明日以降の予定を立てる。次の土日も特に予定なんかないな、と思いながら髪に触る。やっぱりその形に変わりはない。「直らないわよ」と昼間のユミカの言葉が過ぎる。恐怖で一瞬背筋が冷える。が、怯える自分が馬鹿らしく思える。たかが寝ぐせじゃないか。そうして僕は布団に潜り込む。

 

翌朝。鏡の前で昨日と全く同じ形の寝ぐせを確認する。「何のつもりだよ」と僕は寝ぐせに問い掛ける。返事はない。少しお湯で濡らしてみようかとも思ったが、昨日のシャワーの惨敗を思い出してそれを諦める。
職場で会う人会う人にいつもどおり挨拶を交わす。ユミカとも擦れ違う。ごく普通の挨拶を交わしただけだが、どういうわけだか恥ずかしい。恥ずかしいという以上に後ろめたさやら気まずさのようなものさえ感じられる。なんなんだろうな、これは。
寝ぐせのことを忘れるために僕は仕事に精を出す。仕事に集中している間だけ嫌なことを全て忘れられる。…嫌なこと? 僕はどうして寝ぐせをそこまで嫌がっているんだろう? そんな自問をしていると、仕事にも集中できない。寝ぐせが精神にまで影響を及ばすとは思わなかった。
そして昼はいつもどおり休憩室で食事を済ます。昨日と同じようにユミカが近づいてくる。彼女はやはり僕の髪を気にしている。僕の寝ぐせを見つめながら、彼女はゆっくりと僕の前の席に座った。……今日もまた僕の寝ぐせについて話すことになりそうだ。
「直らないでしょ?」とユミカは言う。僕はわけもわからず肯いてから訊ねる。
「どういうことなんだろう、これは?」
「あなたは幾つ?」彼女はやはりマイペースに質問をぶつけてくる。
「二十四だけど?」
「結構若いのね?」とユミカは意外そうに応えた。
「もっと老けて見える?」
「そうでもないけど。年齢のわりには落ち着いているみたい。っていうかやる気が無いって感じ」
「そうかな?」
「あなたは誕生日ケーキのロウソクに火を点けなさそう。『どうせ消すから』って。というかロウソクなんか立てなさそうね」
そうかもしれない、と思って僕は言った。
「そういう面はあるかもしれない。でもたぶん僕はそういうふうになりたかったんだ。そしたらそういうふうになった。それだけのことだよ」
「それに」と少し躊躇いながら彼女は続けた。「年齢のわりには髪が薄くなってるんじゃない?」
「禿げるのが僕の夢だったんだ。禿げたい禿げたいと思ってたらちゃんと禿げてきた。イメージは現実化するってやつだね。それだけのことだよ」
ユミカは何も言わずにニ、三度肯いた。そして憐れむような調子で言った。
「あなたはそういうふうに生きてきたのね?」
「どういう意味?」
「意味なんかないわ。ただ何だかほんとにやる気がないんだなーって思ったの」
ユミカの声は実感がこもっていた。たぶん、そうなのだろう。僕にはやる気がない。
「休みの日は何をしているの?」とユミカが続けた。この取調べはいったいなんなんだろう?と思いながらも僕は答えた。
「別に。洗濯したり掃除したり買い物したり。そんな感じかな」
「遊んだりしないの?」
「遊ぶ暇がないから」
「暇なんか作ろうと思えば作れるでしょ? デートとかもしないわけ?」
「デート? 相手がいないからね」
「相手だって作ろうと思えば作れるでしょ?」
「作れる気がしないな」
「あなた辛い失恋でもしたの?」
「失恋? したかもしれないな」
自然と咲子のことが思い出された。しかしあれを失恋の一言で語られたくもない。あれが僕の何かをずらしたんだ。でも他人が聞けばやっぱりあれはただの失恋なのだろう。だから人に語りたくない。しかしユミカは、
「そのこと詳しく聞かせてくれない?」と目を輝かせて訊ねてきた。
「聞かせるほどの話でもないよ?」
「話したくないってこと?」
「そうだね」と僕は正直に言った。
「じゃあ、話したほうがいいわ」とユミカは夜空に星座を見つけたかのように、はしゃぎ気味に言った。
「どうして?」
「それを話してくれればあなたの寝ぐせを直せるかもしれない」
「話せば…直せる?」
「そう」と肯いてからユミカは続ける。「ねえ、寝ぐせがついた時って、その人の夢を見てたでしょ?」
目を大きく開いて彼女はそう迫る。僕は言われて思い出す。思い出してギクッとする。そうだ、そうだ。確かに咲子の夢を見ていた気がする。
「どうなの?」とユミカは期待を込めて尋ね直す。
「見てた…」僕はまごつきながら答える。
「いつまで休んでるんだ?」と不意に西淀さんが声を掛けてきた。西淀さんはユミカの直属の上司だが、僕はこの人とも特に関わりを持っていない。印象としては「真面目だけが取り柄」と見せかけて結構マニアックな性癖を持っていそうな感じの人だ。
「ごめんなさい、私行かなきゃいけないみたい。それじゃ」と言ってユミカは西淀さんの下に駆け寄った。「さっきの帳票の数字と在庫の数が合わないんだけど」みたいなことを西淀さんはユミカに言っている。「えー!」とユミカは驚いている。そうして二人は休憩室を出て行く。まともな社会があそこにはある。しかし……僕の周りではそれが失くなりつつあるようだ。咲子のことを話せば寝ぐせを直せるって? それに…どうして僕が咲子の夢を見ていたってわかったんだ? それがこの寝ぐせに関係あるっていうのか? おかしなことを言うものだが……僕は既にそのおかしなことに巻き込まれてるようでもある。

 

 

つづく!

 

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作者紹介

山城窓[L]

山城窓

1978年、大阪出身。男性。
第86回文学界新人賞最終候補
第41回文藝賞最終候補
第2回ダ・ヴィンチ文学賞最終候補
メフィスト賞の誌上座談会(メフィスト2009.VOL3)で応募作品が取り上げられる。
R-1ぐらんぷり2010 2回戦進出
小説作品に、『鏡痛の友人』『変性の”ハバエさん”』などがあります。

 

 

 

 

 

 

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