『レニの光芒ー②ー』瀬川深

レニの光芒ー②ー

 

 

瀬川深

 

 

 

3.

 

光りを遮ったのはおれじゃなかった。ダメ親父だ。儲けばなしに目がないくせにツメは甘い。お人好しのくせに山っ気ばかりは強い。もとより商売ができるようなタチじゃなかったのに、それこそが天分だと当人は思いこんでいたんだから度しがたい。冬の寒さがようやくやわらぎかけたころ、これといった日でもないのに寿司桶が出前されてきたのでおれは警戒した。親父の神経が昂揚しているときの常だからだ。
――いやあ、大切なのは人の縁だなァ。誠実にやってればいつかは渡りの舟がくるもんだ。
鮪の寿司をほおばりながら、ヌケヌケと親父はそんなことを言った。
――レアメタルってわかるか、稀少金属だけどなあ、そういうのがホレ、ケータイとか半導体とかああいうのの需要があって、ま、高止まりってやつよ。むかし世話してやったやつがいま大阪でさ。そっち方面の輸入とかやってるらしいのよ。リサイクル関連からもずいぶん取れるらしいんだな。都市鉱山って知ってるか? なあ母ちゃん、知ってるだろ、西田のやつがさぁ、ずいぶん力になってやったじゃないか、あのころは素寒貧だったってのに、いまじゃずいぶん羽振りがいいらしいのよ、えらく。猫の手だって借りたいッてんだけどさ、ま、借りるなら気心知れた手のほうがいいわなあ。そのへん、阿吽の呼吸ってやつよ。
どこまでアテになるのかもわからないような話を、ほとんと他人ごとのような顔をしながら親父はウキウキと喋りつづける。おふくろがひっそりとため息をついた。口のなかが乾くと感じた。シャリが頬の内側にへばりつくような気がした。
――いつのことなのさ、つまり。
親父の与太話をさえぎって、おれは訊いた。冷静なつもりだったが、声がうわずるのがわかった。
――早い方がいいって言うんだよなあ。とりあえず体だけでも移しておいてさ、ま、そのほかのことは、おいおいと。
おふくろがふたたびため息をついた。おれは頭をかきむしりたいような気分だった。要するに、夜逃げだ。恥ずべきことにそれが初めてじゃなかったから、なにがどのように運ぶのかは痛いぐらいにわかっていた。椅子に座っていなかったら膝から崩れ落ちていたことだろう。
絶望的な気分だった。泣きもせず錯乱もしなかったかわり、ただ、無力であるという思いだけが苦い潮みたいに這い上がってきた。さんざん自転車に乗って体を鍛え、いつしか背丈も腕力も親父を上回っていたのに、こうとなってはおれのできることなどなにもなかったんだ。この夜が明けきらないうちに、おれはこの町を離れることになるのだろう。汽水湖のほかにはたいした思い出もない田舎町を。未練なんかないはずだった。それはあながち強がりでもなかった。ただ、ひとつきりのことを除いては。
おれは自転車を走らせた。非常識な時間だということはわかっていたけれど、ほかに方法がなかった。あの社会正義に燃える外科部長にぶん殴られる覚悟もしていたが、レニはそっと玄関口に立ってくれた。
――そうなんだ……。会えなくなるね、しばらく。
――うん。
レニは驚いたようだったが、静かに応対してくれた。おれが胸の痛みを覚えるぐらいに、落ち着き払った態度で。ちょっと待ってて、レニはそう言うと家のなかに入っていき、きびすを返し、しばらくして戻ってきた。
――これ、あげる。お餞別に。
――ありがとう。大切にするよ。
それが精一杯で、ろくすっぽ気の利いたことも言えなかった。それ以上のことなど、できるはずもなかった。
――向こうで落ち着いたら遊びにくるよ。
そう言ってはみたものの、そんな甘いもんじゃないだろうということはよくわかっていた。おれですらわかっていたんだから、あの聡明なレニにわからないはずなどなかっただろう。
おれは、この町の最後の夜の底を疾走した。冷たい水の流れる堀割沿い、かつて米屋だった蔵の前に落ちる街灯の下に自転車を停め、託してくれたカメラを見た。補強された厚紙の箱にうがたれた小さな孔はテープで塞がれ、印画紙の入っている音がする。笑っちゃうほど簡素な作りだ。こんなものを携えて、おれは、おれとレニは、この田舎町でのわずかな時間を過ごしたのだ。日数で数えれば、三百日に満たないぐらいの。
そのときおれは、箱のすみになにかが書かれているのを認めた。いま書いたばかりなのだろう、それがLeni.のサインであることに気付いたとき、不意に涙が湧き上がってきた。小便が漏れるように鼻水がたれるように涙はいくらでもあふれ、とどめようがなかった。おれはカメラを抱きしめ、薄暗がりに隠れてみっともなく泣いた。

 

4.

 

惨めったらしい遁走からほどなくして、おれはダメ親父を見限る覚悟を決めた。がむしゃらにバイトしてカネを貯め、東京に逃げたのだ。専門学校に潜り込んで最低限のコンピューター技術を身につけ、渡り歩いたバイトのさなかにコネをつかんでウェブコンテンツ製作会社に潜り込み……。時代にも助けられたんだとは思う。インターネットというものが猛然とこの社会に根を張りはじめたころだった。とにかくそういったものを扱えるやつならば黒猫だって白猫だってかまいはしない、そんな雑駁な空気があればこそ、おれみたいな後ろ盾のない若造もメシを食っていくことができたんだろう。
そんな折りのことだ。古い時代からの手紙が舞い込んできた。沖浦の高校の同級生が東京で結婚式を挙げるという。失踪したにも等しいおれを捜し出してくれたのも、インターネットのたまものということになる。ありがたいことだ。さんざん迷い、最後には出席にマルをつけて返信した。唯一無二のチャンスになるかもしれなかったからだ。
乏しい蓄えから絞り出してスーツを新調した。知る限りでいちばんいい美容院に行った。祈るような気分で電車に乗った、その努力はたしかに報いられたのだろう。ざわつくカフェレストランの奥まった一隅に、レニが座っていた。ロングヘアに黒く輝くまなざし。なにも変わっていなかった。
八年だ。長かったが、これほどの時間があればこそ、むだに感極まることもなく失われた時間を埋めあわせていくことができたんじゃないかと思う。最初はいささかぎこちなく、やがてゆったりと。
おどろいたことには、いまではレニは工業デザイナーなのだそうだ。大学で建築を学ぶうちに、感化されたものであるらしい。理屈と合理性が最優先される工業製品と、非合理の権化のような人間生理の仲立ちをするもの。翻訳家であり仲介者であり調停者であり、芸術家でもなければならないもの……。あいかわらず、レニは熱を込めて話した。いま自分が挑みかかっていることについて繰り広げられる奔放な言葉は、まぎれもなくレニのものだった。たとえおれの両目が塞がっていたって、レニだと確信が持てたことだろう。
――すごいね。すばらしいな。
――まだまだ駆け出しなのよ、ぜんぜん。
レニは謙遜していたけど、まぎれもなく本心だったよ。同時に、気後れしたことも告白しておく。あのころのおれが身を投じていたことといえば、スポンサーの提灯持ちになって善男善女をだまくらかす記事をウェブサイトに書き飛ばし、嘘八百の星占いや恋愛相談をでっちあげるような、危なっかしい商売でしかなかったからだ。実にひどいありさまではあったことはわかっている。でも、おれは、手を口につなげることで精一杯だったんだ。
そんなことにレニは頓着しなかった。インターネットという新興の技術を面白がってみせた。
――奔流ね。すごい。濁流かもしれないけれど、がんばって泳いでね。
そんな言い方をした。そして、付けくわえた。
――そのうち、わたしだって泳ぎに行くかもしれないから。
――え? それはどういうこと?
おれは問い返したが、レニは謎めいた微笑みを浮かべたきり、それきり口をつぐんでしまった。
さて、そうとなると、むしろ写真の話はしにくかったな。ごく若いころの情熱なんて、いまさらほじくり返すようなものじゃないのかもしれない。なにかしらの挫折や紆余曲折があったのかもしれない。あの汽水湖のほとりでの思い出は酔いのなかにまぎらせてしまい、おれたちは他愛のないことばかりを話していたように思う。
しくじったのは、帰り道でのことだ。再会を懐かしみすぎて、席が温まりすぎて、気がついてみればあらゆる電車の運行が停まっていた。同じ方向の連中がタクシーに乗り合ったとき、一人が三宿で、一人が駒沢で降り、おれはレニと二人きりになった。奇蹟だ! そう思ったのは浅はかだった。断じてそんなことはなかったんだ。言っただろう、奇蹟なんてそう何度も起こるようなもんじゃない。暗闇のなかでそっと手を取り、膝をにじらせようとした、そのときのことだ。
――ダメよ。
――だってさあ、レニ……。
――だってわたし、いま、付き合ってる人がいるもん……。
レニの肩が小さく震えていることに気付いた。その声には涙が混じっているようで、耳を覆いたくなった。やめてくれ、レニ、おれが愚かだった。こんなおれのために悲しむのはやめてくれ……。そうだ、あれは奇蹟なんかじゃなかった、タチの悪い偶然に過ぎなかった。時宜を逃してしまったおれの、間抜けな独りよがりでしかなかったんだ。
逃げるようにタクシーを降り、おれは未練がましくレニを見送った。赤いテールランプが角を曲がって消えるまで。わかっていたはずじゃないか、おれにもレニにもすでに八年の年月が流れてしまっていて、それは二度と元には戻らないんだってことが。そんな苦い思いがこみ上げてきた。

 

5.

 

自分の手で気まずくしてしまった思い出など、忘れてしまうに限る。そう考えていた。二度とレニに連絡を取ることもないだろう、そんなことが許されるはずもない。そう思いこんでいたんだ。それは少々突っ張りすぎた、かたくなな態度だったかもしれないけれどね。
またも何年かが過ぎた。五年、六年、もうちょっとだったか。三十路の坂を越えるころ、おれはアウトドアスポーツ誌の編集部に潜り込んでいた。ウェブ担当者の求人が出ていたところに名乗りを上げたのだ。ちょっぴり給料は下がるけれど、いずれそんな仕事をしてみたいと思っていたんだ。相も変わらず自転車は好きだったしね。なにより、自分の仕事に誇りが持てるってのはすばらしいことじゃないか。最初は前任者の作ったサイトを手直しするていどの仕事だったけれど、しだいに記事の作成をまかされるようになってきた。自転車のパーツをレビューする。国内ツアーに参加し、有名どころの選手にインタビューする。はじめて自分の署名記事が誌面に載ったときには感激したねえ……。
そんな折のことだった。おれは、意外なところでレニの名前に出くわす。自分が編集している雑誌の広告記事でだ。Morphixっておぼえてるか? スマートフォンのシリーズだよ。数名の若手デザイナーにコンセプトデザインを任せたってのが売りで、ちょっと話題になっただろ。そのなかの一人が、レニだったんだ。あのシリーズのなかでもいちばん奇抜なやつだ、左右対称を拒むような、不思議な曲線に彩られたフォルム。ためらったが、メールを出してみた。祝福すべき偉業だと思われたからだ。
意外にも、すぐに返信がきた。中身もかなり意外なことを告げていた。なんと、レニはいまドイツで働いているのだという。たしかに件のスマートフォンのメーカーは外資系だ。開発拠点がベルリンにあるとまでは想像していなかったけれど。来月に一時帰国するのよ、ちょっとした飲み会をやるからさ、おいでよ。ビュッフェスタイルだから、気兼ねなく……。おれは苦笑した。おれの屈託を笑い飛ばすような、さっぱりとした態度だった。メールにはチラシが一枚添付されていた。時は十月の半ば、ところは隅田川沿いのビストロ。
涼しい風が吹くようになっていた夕暮れだった。少々早めに着いたのに、会場はすでに人の熱で温まっている。こぢんまりとした店の入口で会費を払い、お祝いの花束を託し、あたりを見回しておれは感嘆した。目を細めて眺めていると、不意に声をかけられた。
――ひさしぶり! 来てくれてどうもありがとう!
レニだった。言うまでもない、なにも変わってはいない。おたがい、経た時のぶんだけのさまざまを身に刻みつけていただけのことだ。
――続けてたんだ。
――お遊びよ、お遊び。まあ、ちょっとはね……。
そう言いながら、レニはあたりを見まわす。ベルリンの街角なのだろうか。たたずむ老人。大きく引き延ばされた若い娘の目元とスカーフ。これは日本らしい、時代離れした服に身を包み、アスファルトの上に寝そべる幼児。荒涼とした郊外の風景に、遠景のように映り込むカップル。沈黙するような街角の光り、歌うような荒野の光り。どの写真も、世界に向けるレニのまなざしがそのまま感光したかのような鋭さに満ちていた。見ていると、息をするのを忘れそうになるほどだった。
――すごい。すごいな。
そう言うのが精一杯だった。ありがとう、そう言ってレニは微笑んだ。
――あ、日高さん! わざわざありがとうございます。紹介しますね、こちら、わたしの高校のときのクラスメートで……。
ほかの来客に紹介され、挨拶を交わしながら、おれは幸福な気分に浸る。レニは、レニだ。どんなふうに歩いていても、おれとは歩く道がわかれても。レニのことだ、この写真でも、いつか世間を驚かせるにちがいない。
さて、そうとなると。家を出る直前まで迷ってはいたが、持ってきて正解だと思ったな。レニが離れていったすきに、壁の一隅を選んでテープで留めた。どれもこれもひどいできばえだったなかで、ほんのちょっとだけマシだったやつだ。ワインを飲みながら、この場で知り合った同業者と話が盛り上がっていると、戻ってきたレニはすぐに気付いた。おれのへたくそな写真を見て笑い出したのだ。
――あらら、こりゃ大変だ。ひょっとすると、わたし? よく取っておいてたわねえ、こんなの……。
おもしろがるようにあきれたように、レニはつぶやく。一度だってまともに写真を撮らせてくれなかった、あのころのレニだ。ぶれた輪郭、長い髪、露光している最中にぼやけてしまったまなざし。ねえ、見てよみんな! わたしたち、高校のころにこんなことやってたのよ、ピンホールカメラって言ってねえ……。飛び去ってしまった時代の光りが焼き付けられた印画紙を覗き込みながら、酔客たちは笑ったり感心したりする。懐かしいわねえ、わたしもなんか持ってくりゃよかった。レニはそんなことを言った。
――あるよ。
おれは言う。レニは怪訝な顔をする。かばんから取り出した紙製のピンホールカメラ。片すみにLeni.のサイン。
そのときのことだ。気がついたのはおれだけだっただろう。あの、いつだって悠揚迫らざる態度だったレニの、長い髪から覗いたかたちのよい耳介がさっと朱に染まったのだ。ほんの一瞬のことだった。笑みのなかにかすかな怒りと含羞とが複雑に入り交じった表情で、レニはおれのほうに向き直る。
――ちょっと。現像したんでしょ。出しなさいよ。
隠し立てなんかできるはずもなかった。鋭いくちばしを持った猛禽と相対したときの生物の気持ち……、そんなふうに言ったことがあったっけか? おれは叱られた子供みたいにはにかみながら、箱の蓋を開ける。ほんの数日前に現像したばかりだ。印画紙の上に奇跡的に息づいていた、遠いむかしの光り。
レニの写真に並べてテープで留める。眺めていた一同はざわつき、笑い、口笛を吹く。高校時代のおれだ。授業中にちがいない、前を見つめてノートを取っている横顔である。いつのまに撮ったものやら。半袖を着ているところからすると、夏の始まるころだろう。
レニと出会って、間もないころの写真にちがいない。

 

(了)

 

 

 

 

作者紹介

瀬川深(せがわ しん)

 

1974年生まれ。岩手県生まれ。東京医科歯科大学卒業。同大学院博士課程修了。医学博士。

2007年『mit Tuba』(『チューバはうたう』に改題)で第23回太宰治賞を受賞。

作品に、『ゲノムの国の恋人』、『ミサキラジオ』などがある。

イェール大学で遺伝学・神経生物学研究にたずさわりながら、執筆活動を続けている。

 

 

 

『レニの光芒』は、瀬川氏がにゃんころがりmagazineのために書き下ろしてくれた、2017年11月発表のオリジナル作品です。