小説『やすちゃん⑧』にゃんく

 

 

やすちゃん⑧

 

 

にゃんく

 

 

 

 

 夜の十時すぎに会社から歩いて帰っていると、道路を走行するクルマから、上杉昇の歌声が聞こえたような気がして懐かしく思った。ぼくは聴かなくなって久しいけれど、いまだに彼の歌を聴いている人がいる。上杉昇はWANDSの元ボーカルだ。
 数日後、この出来事を憶えていて、ネットで上杉昇を検索してみた。彼はWANDSを脱退し、その後あたらしいバンドを結成、そしてソロ活動もおこなっているという。あたらしいバンドを結成したところくらいまではぼくも知っていたけれど、ソロになってからの楽曲については追いかけていなかったから知らなかった。今はネットもあるから便利だ。ホームページを見つけたから彼の曲を試聴してみた。知っている曲も知らない曲もあった。けれど、やっぱりいい曲だなと思った。ぼくが遠ざかっているあいだに、ずいぶん新しい曲もつくっているみたいだった。彼は周囲の人たちやファンから何を言われようと、自分の作りたい曲を作っていた。自分がこれぞという方向に進んでいた。そのためにレコード会社とも決別したらしい。むかし友人に貶されたミュージシャンが、熱心なファンにささえられて連綿と生きつづけていたのだとぼくは思って感慨ふかかった。

 

 人がどうこう言ったことに流されず、自分がこれと思ったものを追いかければいい、打ちこめばいい。そのことにぼくが気づくのに何年もかかった。いや、何十年かもしれない。
 でも、やすちゃんははじめからそのことに気づいていた。いや、気づいてはいなかったのかもしれないけれど、そういう生き方をしていた。何も大学に行かないことや、働かないことが自由だとは思っていないけれど。ぼくが持っていないものを、やすちゃんが持っていることはたしかだった。それは何者にも束縛されず、自由に生きるということだった。ぼくから見て、やすちゃんの纏っている自由さは、光り輝いていた。

 

 ぼくの親はぼくがほんとうにやりたいと思って申し出たことを、いつも決まって却下した。それはある見方をすればただしい厳しさになるのかもしれなかったけれど、全体的な視野から見れば明らかにまちがっていた。ぼくはがんじがらめのなかで生きていかねばならなかった。そこには自主性や自発性といったものは育まれる余地がなかった。親が言うことはすべて正しくて、そこに意見を差し挟むことは厳禁だった。漫画よりも小説がただしくて、(友人たちが皆乗っていようとも、ぼくひとりだけが孤立することになろうとも)原付バイクなんて乗ることはもっての他だったし、(学業を理由に)アルバイトをすることも禁じられた。テレビゲームは悪であったし、理由もわからず四年生大学には必ず進学するよう言われたし、進学したら進学したで、(どんなに不便でも)片道三時間かけて通学しようとも独り暮らしをすることは許されなかった。理由は不明だった。ただ、駄目だから駄目という説明しかなかった。そういうふうな説明しかできないのは、そこにすくなからず、彼ら自身の計算や思惑のようなものがひそんでいるからにちがいなかった。本来いちばん大切なはずの、ぼくの考えを尊重するような態度は、微塵も感じられなかった。ぼくが何をやりたくて、何を考えているかなどはどうでもよかった。ただ悪さをせずに、おとなしく、金さえ稼ぐようになればそれでよかったのかもしれない。要は、親は自分たちのことしか考えていなかったのだ。

 

 悪くいえば、権威的だった。それらは良くない決めつけ・思いこみのオンパレードだった。固定観念だった。理由のない蔑視だった。そういった考え方から派生してくるものは、いじめ、虐待、無知、偏見、差別、暴力でしかなかった。ガラスの天井が砕け、血まみれの破片にこびりついているのは、それらの言葉たちだった。繰り返される歴史、戦争。黒人よりも白人。エタ非人。世界中にそのような不幸が蔓延していた。そしてもはや誰にも手の施しようがなかった。腹をすかした子どもたちが、ちいさな縄張りあらそいのために、お互いを傷つけあっている。救世主はあらわれない。たいせつなものが奪われ、殺され、二度ともどることがないという絶望に。息苦しい。あたまが狂いそうだ。生きている意味がない。なぜなら世界が崩壊しているから。……

 

 平日の休日の午後だった。お昼を食べたあと、ぼくは昼寝をしていたのだった。何か嫌な思念にとりつかれていた。目を何度かしばたたく。アルバイトが休みの妻が、和室で彼女はアルバムの整理をしていた。二月に行った伊豆の旅行の写真を現像したので、それを並べているらしかった。
 ぼくはふとむかしのアルバムを書棚から引っぱりだし、手にとってみた。
 小学生のころの運動会や、ピアノの発表会の写真などがおさまっている。ぼくはやすちゃんを捜したが、意外にもやすちゃんが写っている写真がいちまいもなかった。あれだけ仲よくしていたし、いつも一緒にいたのにそんなことはありえないだろうとはんぶん血眼になって捜したけれど、やはり何処にもなかった。
 なんとなく、ほんとうはやすちゃんなどという友人が存在したことなどなく、ぼくが都合よくこころのなかで作りあげた架空のにんげんではないかという錯覚にとらわれた。
 ぼくはあたまを揺すり、妄想を振りはらった。そして、やすちゃんに会いに行こうと思った。
 返済期限を一ヶ月すぎても、依然としてやすちゃんからは何の連絡もなかった。
 ためしにぼくの方からメールを送ってみると、宛先不明で戻ってきてしまった。電話をかけても呼びだし音は鳴るがいっこうにでない。
 ぼくはおしえてもらった住所番地をたよりに、地図を片手に電車を乗りついで彼のシェアしているというマンションを訪ねてみた。
 そこは陽もあたらないじめじめとした、マンションというより雑居ビルのような感じの処(ところ)で、一階のエレベーターのボタンを押しても、ケージの所在地を示すランプがいつまでたっても四階から下りてこなかった。
 ぼくは仕方なく階段をつかい三階まであがった。薄暗くでこぼこした廊下に足をひっかけそうになった。
 二階の三世帯ある真ん中の部屋が、やすちゃんたちの居住する部屋のはずだった。
 ドアをノックしてしばらく待った。
 笑われるかもしれないけれど、この期に及んでぼくが伝えたかったことは、借金とりの口上なんかではなく、やすちゃんへの友情だったと思う。たった二十万のために、取りもどしかけた貴い友情をうしないたくなかった。
 とびらの上部に備えつけられている、電気メーターはもうなんねんも使用していないかのようにぴたっと止まっていた。二度ノックして部屋のなかから応答がなかったので、帰ろうかと思い数歩もどりかけたところ、幽霊のような声が背後からただよってきてぼくを固まらせた。
「だぁれ?」
 僅かにひらいたドアの隙間から、そこだけぎらぎらした赫きをはなっている目玉がふたつ並んでいる。ぼくが戻って名のり、やすちゃんの友人であることを告げると、ドアがそれよりまた数センチひらき、虫眼鏡のようなぶ厚いレンズをかけた、四十代くらいのおとこがぬっと首を突きだした。
「出てったぁよ」
 とおとこは言った。きつい口臭にぼくは失礼にあたらないように数センチずつ気(け)どられないように、顔を遠ざけていた。
「連絡をとりたいんですが、何処に行ったか知っていますか?」
 と聞くと、おとこはごましおの顎髭をぷるぷる震わせながら、今にも死にそうな弱々しいうごきで首をふった。
 いつ出ていったのか訊ねると、
「三ヵげつくらいまぁえだぁ」
 とおとこは言った。払いおくれていた家賃のシェア二ヶ月ぶんである八万円をおとこに払ってから出ていったのだという。
 また此処に戻ってくるかどうか訊いてみると、
「さあ、わからんん」とおとこは吐き出す息にことばを乗せるようにして喋った。「寝袋ぉかついで行ったからぁね」
 戻ってきたらぁ、連絡しようか? とおっさんが言った。ぼくはおっさんのセリフを無視した。こんな汚いおっさんの処にもどってくるくらいなら、ぼくにだって挨拶ひとつ寄こしてくるだろう。何を勝ちほこっているのか、このおっさんは。
「店をひらくから、忙しかったんですよね、きっと」
 とぼくが自分に言い聞かせるようにして呟くと、
「店?」
 とおっさんが食いついてきた。そしてぼくに身を寄せてきた。ぼくはまた数センチ顔をのけぞらせる。
「和風居酒屋を開業するっていってたんですよ」
 とぼくが言うと、おっさんは狐につままれたようなきょとんとした顔をした。一緒に暮らしていてそんなことも知らなかったらしい。今度はぼくがすこし勝ちほこったように胸をそらした。
「いつも此処でごろごろしてたぁよ」とおっさんは冷ややかに言ってのけた。「何かのまちがぁいじゃないかな?」
 それ以上何を訊くことも思いつかなかった。なんだか忘れてしまいたい、嫌な話をきいてしまった。ぼくはおっさんへの礼もそこそこにその場をあとにした。

 

 北綾瀬駅まで歩く。単線の電車は北綾瀬駅と綾瀬駅との往復をしている最中で、構内にはまだ電車はやって来ていなかった。
 二十分ほどしてようやく電車がもどってくる。そこへ乗りこんだとき、ようやくやすちゃんがぼくから逃げていった事実に思いいたった。というより、それは直視したくない現実で、もうかなり以前から気づいていた予感なのであった。
 それでもぼくはやすちゃんに対する怒りの気もちは不思議なほど感じていなかった。
 そして別れのまえ、ぼくはやすちゃんに、サヨナラをいうことができなかったと思った。二十歳、やすちゃんが旅にでる前日、不覚にもなみだを流してしまったときと同じように。こんどもまたサヨナラをいうことができなかった。
 綾瀬駅に到着すると、ぼくは出しぬけに改札から外へ出た。降りる駅は此処ではなかった。歩いて此処から家にかえるわけでもなかった。ぼくが肩を怒らせてがむしゃらに歩きだしたのは、たぶんやすちゃんを捜すためだった。けれどきっとやすちゃんはこの街にはいない、遠くに去ってしまっていると頭のなかでわかっていたけれど、ぼくは当(あ)て所(ど)もなく狂ったように西へ東へ歩いていた。
 陸橋の柱の裏や、公園の木のむこうに、やすちゃんの影を認めたような気がして、そのたびぼくは猛然と競歩のように迫って行った。近くなるたび、その影は掻き消えてしまう。ぼくはありったけの声をだしてやすちゃんの名を叫んだ。
 何処かでほんもののやすちゃんが、振りかえったような気がした。

 

 

(了)

 

 

 

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執筆者紹介

にゃんく

にゃんころがりmagazine編集長。
X JAPANのファン。カレーも大好き。

 

 

 

 

 

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