『寝ぐせのラビリンス①』山城窓~にゃんマガが世界にほこるプロ級作家があたためてきた青春小説!

寝ぐせのラビリンス①

 

 

山城窓

 

 

 のびのびと降り注ぐ陽射しの下で、僕はしばらくボートの縁にしがみついていたが、やがてゆっくりとその手を放し、その身をボートの下に隠した。ボートの上には二人の男がいる。二人とも現地のインストラクターだ。片方は二十代ほどの逞しい男なのだが、どういうわけだか彼はもう一人の痩せた金髪の男の首を絞めている。やれやれ困ったものだ。助けを求めてきたのにこっちが助けなきゃいけないような有り様じゃないか。
 甲板を叩く音が聞こえる。再び顔をボートの上に上げて見ると、金髪の男が頭を打ち付けられている。仕方がない。少し待ってみよう。今巻き込まれるよりは、ことが終わってから自分の足で立ちあがれる方の男に助けを求めた方が話は早いし安全だろう。そう思って僕は海面から首だけ出してボートとともに漂っていた。
 その船の下三十メートルでは相変わらず咲子が身を捩っていた。狭い岩間を泳いでいたが彼女はその岩間に閉じ込められるようにして動けなくなっているのだ。無理に身を捩らなくとも、一旦下降してそこまでの道を逆に辿れば抜け出ることは出来る筈なのだが、咲子には既にその余裕がなかった。
 僕は海底の咲子を心配しながら船の上の格闘が終わるのを待った。まあ咲子の酸素ボンベも後三十分は持つ筈だし、それまでには上でもけりがつくだろう。けりがつかなかったらつかなかったで、その時は僕がどうにか誘導すればいい。さっきも誘導しようとはしたが、咲子は既にパニックになっていて暴れるばかりだった。たぶんもう少し待てば咲子も暴れ疲れて素直に僕の誘導に乗ってきてくれるだろう。
 そうして僕はただ待った。ボートの上から聞こえてくる荒れた口調の外国語を、頭の中で翻訳して、事の経過を確かめようともしたが、僕の知ってる単語は殆ど聞こえてこなかったし、怒りの混ざったその言葉は聞き取ることがそもそも困難だった。まあ、何にせよ怒りが収まっていないということだけは確かだ。そして恐らくこの調子だとまだまだ収まりそうにない……
 意を決して、僕は再び海中に潜った。光が少しずつ限られていく。潜り続けていくとやがてライトの淡い光が見つかる。そこでは咲子が依然としてもがいている。狭い岩間の向こうで、咲子はそこから逃れようとしている。水中眼鏡の奥に垣間見えるその目は必死そのものだ。普段から気性が穏やかなわけじゃない咲子だが、こんなに激しい目を見せるのは初めてだ。
「一度下に戻れ」と僕は手振りで示して見せた。咲子はそれを意に介さず、その狭い岩間をどうにかこじあけようとしている。
「無理だ」と僕は両手でバツを作り再び伝えようとした。しかし咲子はただやみくもに、岩を持つ手に力をこめる。
 つまり…殆ど何も伝わっていない。僕が向こうに行くしかなさそうだ。一度咲子から離れ、僕は更に深く潜った。そして大きな岩をぐるっと回って咲子が辿っていった跡を進んだ。大きな二枚の岩。その間を進む。視界が悪い。額に付けてるライトが無ければここは真っ暗だろう。進んでいくと両サイドから岩が少しずつせり出してきて、通り道が狭くなっていく。上の方もいつのまにか岩が屋根のように迫ってきている。
 まるで洞窟のようなその通路は、緩やかに旋回しながら、少しづつ上昇している。巻貝の中はこんな感じかもしれない。そんなことを思いながら、行きつくところまでいくと、咲子の足がばたついている。懸命な彼女は僕に気付く気配もない。仕方なく僕は彼女の足を掴んだ。そして引っ張ってみたが、その足は更に激しくばたついて、僕の両手を振りほどいた。もう一度、掴もうとしたが、僕の手を蹴り上げて、咲子は岩間をすり抜けた?
 どういうわけだか、彼女は通れない筈の岩の隙間を通り抜けて向こう側に行った。よく見るとさっきよりその隙間が広がっている。どうやら彼女は岩の一部を割ってしまったようだ。死ぬ気になれば何でもできるっていうのは本当かもしれない。
 咲子は一度だけ振り返って僕を睨み付けた。そしてさっさと上昇していった。僕も咲子が広げた岩間を抜けて、その後を追った。何にせよ咲子は無事に助かった。後はボートの上の外国人が問題だ。
 と思ったが、ボートの上に上がってみると、戦いはすっかり終息している。なんだかよくわからないが、怒り猛っていた筈の逞しい男は、笑顔で缶ビールを飲みながら、痩せた金髪の男に話し掛けているし、その話を聞いた痩せた金髪の男は、気の利いた冗談を聞いたかのように笑っている。強く打ち付けられていた頭には、すっぽりと麦わら帽子を被っていて負傷も確認できない。何事もなかったかのような穏やかな光景がそこにはある。
 そして咲子は一人甲板に寝転がり、肩で息をしている。その横では酸素ボンベやマスクやレギュレーターが無造作に投げ出されている。結構苦しんでいたようだが、何にせよ何もかも上手くいったわけだ。
「良かったね」
 そう僕が話し掛けると、咲子は僕を鋭くねめつけながら起き上がった。
「何が良かったのよ?」
「助かって良かったじゃないか?」
「いい加減にしてよ!」
「何が?」
「あなたなんで助けないのよ?」
「助けようとしたじゃないか?」
「邪魔してたじゃない。無理やり足引っ張って」
「違う!」僕は急いで首を振った。「一度下に潜れば簡単に抜け出せたんだよ」
「あなた見てないの? 下の方に鮫がいたのよ?」
「鮫? そんなのいなかったよ?」
「いたわよ! あなたが見てなくても私は見たのよ!」
「どっちにしても一回下に潜るしかない状況だったじゃないか?」
「そんなことないじゃない。実際に私はあの岩の隙間を抜けてきたでしょ?」
「だって岩がそんな簡単に割れるだなんて思わないじゃないか?」
「最初から割れかけてたのよ。ヒビが入ってて。だからあなたが手を貸してくれればもっと早く抜け出せた筈よ」
「ヒビ? ヒビなんかあった?」
「あったわよ」
「僕の方からは見えなかったよ?」
「だからあなたに見えなくてもあるものはあるのよ! それに大体、海の底でいきなり足を摑まれる気持ちってわかる? わけわかんないし、どれだけ怖かったか。せめて先に一言何か言ってからにしてよ!」
「言いようがないじゃないか? それに最初にこうやって示してただろ? 『一回下に戻れ』って」そう言って僕はさっきやったように、一度指を立ててから、親指で下を示した。
「そんなの『一回死んで来い』っていうふうにしか見えなかったわ」
「そんなわけないじゃないか?」
「それにこれは何よ」と言って咲子は両手を交差させてバツを作った。「何がバツなのかわからないじゃない。『もう無理だ。そこで死ね』って意味に見えるじゃない」
「そんなつもりないよ。岩を割るのが無理だって意味だよ、あれは」
「だから岩は割れたじゃないのよ」
「だからそれは……」堂々巡りだ。何を言っても無駄な気がしてきた。「とにかく僕はベストを尽くした。出来るだけのことはやった」
「あなた何もやってないじゃない。しかもあなた私が苦しんでるのに、一回一人で休憩してたでしょ?」
「休憩なんかしてないよ?」
「一回ボートまで戻ったじゃない。しかも長いこと戻ってこなかった」
「あれは助けを呼びに行ったんだよ」
「誰も助けに来なかったじゃない!」
「だから助けを求められるような状況じゃなかったんだ。こっちはこっちでかなり激しい喧嘩になってて…」
「何言ってるの? 誰と誰が喧嘩をしてたわけ?」
「だからあの二人が…」と僕は現地の男たちを指差したが、確かにあれほど激しい喧嘩をしてたようには見えないぐらい空気は和んでいる。こっちの空気の方がギスギスしているぐらいだ。
「ねえ、ちょっと」と僕は二人の男に声を掛けた。こっちの言葉が伝わることを祈りながら。「ケンカしてたよね。さっきまで」
「ダイジョウブ。シンパイない。モンダイない」と殴られていたほうの男が飛びっきりの笑顔で答えた。なんだってそんな淀みのない笑顔ができるんだ。少しでいいから引きつってくれ。
「問題ないって言ってるじゃないの! 卑怯な真似しないでよ。言葉が通じないことを利用して誤魔化そうとするなんて…」咲子の怒りは案の定、倍増している。これはもう無理だ。嵐が去るのを待った方が良さそうだ。
「15時だ。帰るよ」とインストラクターが声を掛ける。僕は「ああ、はい」とただ肯く。こんな胡散臭い男たちに頼まなければよかったんだ。料金のことを気にしなければ、スキューバダイビングぐらいもっとマシな形で楽しめただろうに。
 淀んだ僕の気持ちを誤魔化そうとでもするように、ボートは勢いよく海上を走る。時々魚がボートとのランデブーを楽しむように、海面を跳ねる。そして普段は見れない澄み切った空。そう、景観は悪くない。しかし咲子は幅三メートルほどのボートの上で、出来るだけ僕から距離を置き、僕と反対の方向だけを見ている。この気まずさは自然すら圧倒する。大自然は些細なことを忘れさせてくれるんじゃなかったのか?
 結局、港に着くまで咲子は一言も口を利かなかった。そして港に着いたら着いたで、僕から目を逸らしたまま更衣室を目指していった。僕もとりあえず更衣室に向かった。シャワーを浴びて、できるだけ早く着替えて、咲子を待つつもりだった。だが咲子は僕より先に身支度を整えて、タクシー乗り場に向かっていた。追いかける僕に目もくれず咲子はタクシーに乗り込もうとした。その咲子に僕はどうにか追いついて声を掛けた。
「ちょっと待ってくれ。機嫌を直せとは言わないけど、せめて一緒に帰ろう。一応外国だし何があるかわからないじゃないか?」
「一人で帰る」怒りを通り越したのか、その声は悲哀に満ちていた。「自分さえ良ければそれでいいっていう人と一緒に帰りたくない」
 そう言って咲子はタクシーに乗り込んだ。僕はそれ以上何も言えなくなって、ドアを閉めて走り去るタクシーを呆然と見送った。どうしてこんなことになったんだろう? どこかで何かがほんの少しずれた。それによってその上に積み重なるものは全てずれてしまった。一つずつ整理しよう。少し間を置いてゆっくり帰ろう。そしてホテルに帰ってから、咲子ともう一度落ち着いて話し合おう。冷静に話せばきっと彼女もわかってくれる。少なくとも今より状況が悪くなることはないだろう。
 土産物屋で、咲子が喜びそうなものを探してみた。普段は見ないアクセサリー売り場も覘いてみた。だけど何をあげても彼女は喜ばない気がした。結局自分の分のTシャツだけを買って僕はゆっくりとホテルに戻った。戻ってみると、どういうわけだかフロントにルームキーが預けられている。咲子はまだ戻っていない? それともまたどこかに出かけたのか?
 疑問に思いながら部屋に入るとやはり咲子はいない。よく見ると咲子の荷物は何一つ残っていない。そしてテーブルの上には書置きがある。そこには「先に帰ります。さようなら。板川咲子」とだけ書かれている。要件が簡潔にまとめられていて無駄が無い。普段は余計なことばっかり喋ってるくせに。
思えばさっきも「自分さえ良ければいいっていう人と一緒に帰りたくない」とは言っていた。あれは「ホテルまで」という意味ではなかったわけか。それにしても本当に帰ったのだろうか? 予定では明日の飛行機で帰る予定だった。飛行機のチケットは僕が持っているわけだし、もしかしたら気が変わって戻ってくるかもしれない。そして明日一緒に帰ることになるかもしれない。そもそも咲子はそんなにテキパキと物事をこなせるタイプじゃない。自分で帰りのチケットを手に入れることがそもそもできるだろうか? 旅行会社でこの旅行を申し込んだのも、スキューバダイビングの申し込みの手続きをしたのも(これは失敗だったが)、全部僕だ。パスポートの取り方も僕が一つ一つ教えたんだ。……彼女は一人じゃ帰れない。きっと戻ってくるだろう。
 そう思って僕はそれからずっとホテルの部屋にいた。咲子がそこに戻ってきたときのために。しかし、結局彼女は戻ってこなかった。僕は翌日仕方なく一人で帰りの飛行機に乗った。

 

 帰国してから、僕はまず咲子の携帯電話に電話を掛けた。が、つながらなかった。時間を置いて、日を置いて、何度か試してみたが、それはつながることはなかった。携帯電話はいつも話中を示す気の抜けた音を僕に返す。たぶん着信拒否ってやつだ。つまり書置きに書かれたあの「さようなら」は一時的な別れを示すものではなかったわけだ………。
 しかし、だ。彼女は本当にあの島から帰れたのだろうか? もしかしたら今でも一人であの島に残されているんじゃないだろうか? 僕は彼女の住所も正確には知らない。元々バイト先で知り合ったのだが、彼女はとっくにそのバイトを辞めている。僕には彼女の帰還を確かめることすら出来ない。
ある時、友人が「隣街のデパートで働いてたぜ」と咲子の消息を語ってくれた。だけど僕はそれを自分の目で確かめることはできなかった。ふられた立場でそうそう会いにいけるものじゃない。というか、それはいわば反則だろう。
そんなふうにして咲子は僕の心に引っ掛かったままだ。彼女は本当に帰国したのだろうか? それにあんな形で終わってしまっていいのだろうか? 僕にはまだ話すことがある。伝えるべき言葉があり、解くべき誤解がある。だけど、解っている。彼女が勤めているであろうデパートにまで押しかけたなら、しつこい奴だの女々しい奴だのと思われて余計に嫌われる。だから僕はただ待つ。向こうからの連絡を。何らかの機会が訪れるのを。
そうした想いが時々僕に嫌な夢を見させる。彼女は今もあの南の島の海底で、岩に挟まれてもがいている。そして助けようとする僕を睨み付けてくる。どれだけ声を張り上げても、僕の言葉は軽すぎるようで、それはすべて泡となって上昇していく。そして苦しみの中で、救われないまま、何の展開も見せないまま僕は目を覚ますことになる。

 

 

つづく!

 

 

作者紹介

山城窓[L]

山城窓

1978年、大阪出身。男性。
第86回文学界新人賞最終候補
第41回文藝賞最終候補
第2回ダ・ヴィンチ文学賞最終候補
メフィスト賞の誌上座談会(メフィスト2009.VOL3)で応募作品が取り上げられる。
R-1ぐらんぷり2010 2回戦進出
小説作品に、『鏡痛の友人』『変性の”ハバエさん”』などがあります。

 

 

 

 

 

 

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