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寝ぐせのラビリンス④
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山城窓
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「失恋でしょ?」とユミカが見越したように言い放つ。「昨日言ってたじゃない? 辛い失恋をしたって。失恋で心に寝ぐせが付くことって多いらしいし」
僕はぼんやりと肯く。僕は咲子のことを思い出す。確かに…あの時のことは僕の心にダメージを残している気はする。
「それに」ユミカが先を急ぐように続ける。「あなたは失恋の話を話したくないんでしょ?」
「そうだけど?」
「大体そうなのよ」
「そうって?」
「心の寝ぐせの原因って大体話したくないことらしいわ」
「そうなんだ…」考えがまとまりきらない僕は、いい加減に相槌を打つ。
「それにあなたは寝ぐせが付いたとき、その失恋の夢を見てたんでしょ? 寝ぐせが付く時の夢が、寝ぐせの原因を表しているんだって」
ふ~ん、と僕はまたぼんやりと肯く。なかなか状況を飲み込みきれない。そんな中で何か引っ掛かる。僕はその引っ掛かりを口に出す。
「ただ…失恋の夢を見ていた気はするけど…そんなにはっきり覚えてないんだよな。その時どんな夢を見ていたかなんて」そう、夢なんかそんなにはっきり覚えてない。
煮え切らない男ねえ、とでも言いたそうな目で、ユミカは苛立つように問いただす。
「他に何かあるわけ? 他にもっと話したくないことで、しかもずっと心に引っ掛かっているようなことが?」
他には……特に心当たりがない。もちろん全く心当たりがないわけじゃない。でも今でも僕の心を締め付けるようなものは咲子のことだけだ。嫌な奴に嫌なことを言われたような記憶はさほど尾を引かない。そういうのは躊躇わずに切り捨てるなり封印するなりできるから。でも僕は咲子のことが好きだった。だから切り捨てたくもないし、時々思い出したくもなるし…そうして咲子の記憶は尾を引き続ける……
「どうなの? 他に何かあるの?」
「いや…なさそう」と僕は正直に言った。それから注意深く確認した。「じゃあさ、とにかく僕が過去の傷…みたいなものを克服したら、寝ぐせは直るってこと?」
「そういうことね」
「それはつまり、心に引っ掛かっているものを断ち切って、僕の気持ちが…なんていうかすっきりしたら、寝ぐせは直る?」
「そう」
「具体的にいえば、僕が前の彼女とのことを断ち切れたら、寝ぐせは直る?」
「そうじゃないの。あなたがそれで気が晴れるんなら」面倒臭そうにユミカは言った。「とりあえずまずは話してみてくれない? あなたがどうやってふられたかを。それを話してくれればどうにかできるかもしれないわ」と言った後で、ユミカは唐突に立ち上がった。そして早口に言った。「っていうか、もう時間ないわ。行かないと。それじゃまた明日ね」
そう言ってユミカは立ち去ってしまった。僕は取り残されたような心細い気持ちでそれを見送った。しかし……心の寝ぐせを直せば直る? なんだかよくわからないが……今はユミカのいうことを信じるしかないのかもしれない。他にこの寝ぐせを直す手立てがない。他に手段があるとしたら…いっそ切ってしまうか? 寝ぐせがそれとわからないぐらいに短く? でもこんなことで坊主になりたくない。それとも病院にでも行ってみるか? いや、駄目だ。『どうしました?』と医者に訊かれて、『寝ぐせが付いたんです』なんて言ったら呆れられるか怒られるか…どっちにしてもまともに取り合ってくれないだろう。そもそもこんなもの何科に行けばいいんだ?
やめだ。何もしなくていい。たかが寝ぐせにお金を掛けたくもない。
結局この日も僕は寝ぐせをつけたままで帰宅した。袋小路に迷い込んだような苛立ちを抱えたままで。とりあえず夕刊を読んで気持ちを寝ぐせから逸らそう。そう思って夕刊を開きかけたが、その間からいくつかの郵便物が零れた。携帯電話の利用明細書。銀行からの案内状。そして何らかのダイレクトメール。興味が持てないそれらの書面はとりあえず置いといて、夕刊に先に目を通す。いつもならそうするところだが、ダイレクトメールが気になった。素っ気無い真っ白の封筒だが、その送り主は「寝ぐせの里」となっている。しかもよく見ると「重要」と朱書きされている。宛名には確かに僕の名前がはっきりと示されている。誰かのいたずらだろうか?
嫌な予感がしたが、とりあえず僕はその封を切った。中からはカラー写真入りのパンフレットのようなものと、ワープロで簡単に作れそうな説明書のようなものがあった。その説明書のようなものにまず目を通した。
“寝ぐせの里”説明会
憂鬱を予感させる春、いかがお過ごしでしょうか? 気持ちをないがしろにされたり、冷たい仕打ちを受けたり、信じていた人に裏切られたり。そうした嫌な記憶が脳の片隅に宿ることで、思考、精神、ひいては人生にまで影響が及ぼされることもあるでしょう。些細なことでも蓄積されれば、人生を狂わすこともあるものです。いえ、些細なことほど自覚されることなく心を蝕んでいくものです。そうして知らず知らずのうちに寝ぐせが付き、知らず知らずのうちに寝ぐせに侵される人もいるでしょう。
そうした人たちに手を差し伸べるのが“寝ぐせの里”です。ここではどんな寝ぐせも尊重されます。そして皆様が健やかなる誇りを持ち、新たな自分を築くお手伝いをさせていただきます。きっと寝ぐせに悩まされることはなくなるでしょう。
ご不明な点も多々あると思われますので、下記日程において説明会を実施します。寝ぐせの付いている方はお気軽においでください。寝ぐせの付いたスタッフが丁寧にご案内いたします。
※尚、当日ご都合の悪い方はご連絡ください。ご希望に応じまして新たに機会を設けさせていただきます。
時:4月26日(土)午後2時~4時
場所:寝ぐせの里 埼久北支部 第二集会所
パンフレットの方も見てみた。“全てを受け容れて、新しい未来を開こう”と前向きだが曖昧なキャッチコピーらしき文句がある。そして他には住宅地のパンフレットのように緑に囲まれた公園の写真がある。トレーニングジムのパンフレットのように、エアロバイクを漕いで汗を流す若い男性の写真がある。アルバイトの広告のようにコールセンターらしき場所で爽やかな笑顔の女性が仕事に励んでいる写真がある。さらにはレストランのメニューのように、料理だけを捉えた写真もある。しかしそれらの写真についての説明はない。そしてそれらの写真の中の人々は皆髪に寝ぐせが付いている。
住所を確認してみる。埼久町大字仁島二丁目五番地。市内だが、駅の向こう側。行ったことがない土地だ。
首を傾げ続けながら思う。さて、これは何なんだろう? いたずらにしては手が込んでいる。いや、込み過ぎている。いたずらじゃないならなんなのか? つまり僕の知らないこういう組織が実際にある? 新興宗教? しかし……寝ぐせの里?
自分の頭を撫でてみる。寝ぐせはもはや当たり前のようにそこにある。この寝ぐせと関係あるのだろうか? ……たぶんあるのだろう。なんだかよくわからないが、この寝ぐせの里は、寝ぐせの付いた人に手を差し伸べてくれるらしい。いわばここに行けばこの寝ぐせを直してくれるということだろうか?
説明会とやらは土曜日……明後日だ。行こうと思えば行ける。しかし…今は様子を見よう。共感の持てる点はあるが、こんな胡散臭い団体とは関わり合いにならない方がいいだろう。まずは明日、ユミカともう一度話してみよう。
そう考えて僕は寝ぐせの里から送られてきた資料をごみ箱に放り込もうとした。だが捨てれなかった。なんとなく僕はそれを机の上に置いた。
つづく!
作者紹介
山城窓
第86回文学界新人賞最終候補
第41回文藝賞最終候補
第2回ダ・ヴィンチ文学賞最終候補
メフィスト賞の誌上座談会(メフィスト2009.VOL3)で応募作品が取り上げられる。
R-1ぐらんぷり2010 2回戦進出
小説作品に、『鏡痛の友人』、『変性の”ハバエさん”』などがあります。
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