『寝ぐせのラビリンス⑬』山城窓

 

 

 

寝ぐせのラビリンス⑬

 

山城窓

 

 

 

 

 

 

 僕は喫茶店を出た。そして階段の横にあるトイレに入った。用を足して手を洗った。気持ちを落ち着かせようと思って顔も洗ってみた。ハンカチで顔を拭くとハンカチはびしょびしょになった。鏡に映る顔を見る。顎鬚の剃り残しが目に付く。緊張のせいか目に涙が滲んでいる。情けない顔だ。余計に自信が失くなる。…誰かがトイレに入ってきた。背後から近づく男を僕は鏡越しに確認する。その男も鏡越しに僕を見て、そして小さく会釈した。榎戸だ。僕は振り返り、とりあえず会釈を返した。堂村は…いない。榎戸だけだ。僕はそれを確かめて少し安心した。
「待ってました」と榎戸が控えめな口調で言った。「ここで待ってればあなたはたぶん一度は来るだろうと思ったんです。そしてここならあの女は入れない」
 僕はとりあえず肯いた。そして何となく訊ねた。「堂村さんは?」
「あの男は二階のトイレで張ってます。ですからもしあなたが一階のトイレに行ったなら私たちの負けでした。要するにこれは賭けだったんです」
 僕はぼんやりと肯いた。僕の頭は咲子のことでいっぱいだった。ただ榎戸の口調は徐々に堂々としたものになってきたようだ。彼は普段はやはり堂村に遠慮しているのだろうか?
「とりあえず話をしたいんです。少しだけ時間をくれませんか?」榎戸が言った。その姿は咲子に対する僕とだぶって見えた。話ぐらい聞いてやろうじゃないか。そう思えた。
「いいですけど。十八時までには行かないといけない」
「それほど時間は取らせません。それに私は堂村さんのように無理強いをする気はありません。あの男は『強要はしない』と言いながらも結局のところ強要している。そうです、あの男は常に何かを押付けながら生きています。私に対しても『もっと喋れ』と言いながらも本当に私が喋り出すと『調子に乗るな』と叱りつける始末です。要するにあの男は単にわがままなんです」
 僕は仕方なく肯いた。榎戸という男はどうも抑圧されながら暮らしているようだ。見るからにストレスが溜まっている。そしてそれを今吐き出そうとしているのだろうか? 榎戸は僕の様子を見ながら更に続けた。
「すみません。愚痴っぽくなってしまって。つまり私が言いたいのは私はあの男とは違うということです。何も押付ける気はありません。ですから別に今ここで私の寝ぐせが付いた理由を話す気はありません。今ここで話しても恐らく意味はないからです。ここでは本当にただ話すだけになってしまってあなたには何も伝わらないでしょう。球技におけるパスと同じです。パスの受け手にはパスに反応できる運動神経や、パスの出し手と同じイメージを共有することが求められますが、それ以前にまずパスを受けようという意志が必要です。その意志がなければパスは成功するわけもない。つまり何も伝わらない。わかりますね?」
「はい」と僕は言った。僕も理屈っぽいかもしれないが、榎戸はもっと理屈っぽそうだ。それにしてもこの男は思ったよりよく喋る。榎戸はまだ続ける。
「要するにですね。私があなたにパスを通そうと思うなら、まずあなたにパスを受けたいと思っていただかなければならない。そうでなければどんなに素晴らしいパスも通りません。そして通らないパスというのは否定されるものです。『どこに投げてるんだ?』、『どこに蹴っているんだ?』といった具合にですね。つまりはどんなパスでも否定される可能性があるということです。言うなればどんなことでも貶そうと思えば貶すことができるわけです。例えばジュースと洗剤を比較した場合です。ジュース側の価値観でいうなら『洗剤なんか不味くて飲めたものじゃない。しかも身体に悪い』と貶し放題です。そして逆に洗剤の側の価値観でいうなら『ジュースなんかじゃ全く汚れは落ちない。そればかりかベトベトになってしまう』とやはり貶し放題です。馬鹿みたいな話だと思いますか? しかし、この世界はそんな馬鹿みたいな諍いに満ちています。いわば人間というのは欠点や短所があるから貶すのではなく、貶したいから貶しているのです。しかし、残念ながら多くの人間にはその自覚がない。とにかく愚かな自分を守るために自分に都合のいい価値観を押付け他者を貶し続ける。そうして可愛そうなことに貶すことばかり上達させていく。もっと言うなら貶すことにばかり頭を使っているものだから、その他のことは上達せずさらに愚かしくなっていく。実に勿体無いことです」
 言ってることには肯ける点もある。しかし、何を話したいのかがよくわからなくなってきた。そんな僕の表情を見て榎戸は少し間を置いた。相手の反応には敏感なようだ。
「少し脱線しましたね」榎戸はそう言った。言った後で自分の言葉を点検するように宙を見つめた。それから続けた。「いや、そんなには脱線してませんね。寝ぐせの里もあまり良く思われていないようですが、それも結局のところ価値観の違いで不当に貶められているに過ぎない。我々は『細かいことに拘り過ぎだ』と言われます。が、それは細かいことまで気が回らない者の言い分です。彼らにとっては細かいことまで拘られると都合が悪いのです。そもそも細かいことを気にかけることが悪いことであるわけはありません。一流のアスリートが道具のずれを一ミリ単位で気にするのを見ればわかるように、微細なことを感じられる感性が最高のパフォーマンスを生む礎となるのです。いわば上を目指すなら、些細なことへの拘りは無くてはならないものです。そして寝ぐせの里にはそういう人がたくさんいる。まあ、中には堂村さんのようながさつな人もいますが、そういう人は寝ぐせの里では威張れません。あの男は私に対しては威張ってるように見えるでしょうが、それは彼がそういう役割を演じているというだけのことです。堂村さんはリーダー的な役割を演じ、私はそれに従う役割を演じていますが、あくまでもそれは表層的なものです。例えば寝ぐせ会では役割を演じることなく、みんな素の状態で話すのですが、そうなると堂村さんは私にすら頭が上がらなくなります。そうしたところが世間と違う点です。世間では押しの強い者がその場のルールを作ってしまう傾向がありますが、寝ぐせの里ではそうはなりません。寝ぐせの里にはそれを認めない空気があるからです。つまり公平な空気ですね。そしてそういう公平な空気の中では心は癒されるものです。わかりますか? 平らな状態では余計な力を抜くことができます。逆に傾いた状態では常にどこかに負担が掛かる。それがストレスにもなっているわけです。さらに公平さというのは人を向上させます。例えば、地面が歪んでいたり傾いたりしていると、その上に何かを積み重ねることが上手く出来ない。つまり何かを積み重ねるためには、その場は平らでないとならないのです。公平さがあればこそ積み重ねが成立し、自己の向上が達成されるのです。そうですね、あなたも一度試してみるのはいかがですか? そういう空気の中で生きるということが心をどれだけ癒すか。さらにその公平さがどれだけ自分自身を向上させるか」
僕は腕時計を見た。時刻は十七時五十五分。もう行った方がよさそうだ。
「僕にはよくわかりません」と僕は正直に言ってみた。「ただ僕は寝ぐせの里を試す前に、…今ここで試してみることがあります」
「試すまでもないと思いますけどね。結果は知れてませんか?」
「結果はともかく、僕の寝ぐせを直すために頑張ってる人がいるんです。だから今はとりあえずここで寝ぐせを直そうと思います。今はそれしか考えられません」
「わかりました…」榎戸は肯いた。喋り足りないが無理強いはしない、といったところだろうか。榎戸は最後に予言的に言った。「でもあなたは寝ぐせから逃れられませんよ」
 僕は苦笑した。「それじゃ」と言って僕はトイレを出た。榎戸はそこから動こうとはしなかった。

 

 

 

 

 

つづく!

 

 

 

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作者紹介

山城窓[L]

山城窓

1978年、大阪出身。男性。

第86回文学界新人賞最終候補

第41回文藝賞最終候補

第2回ダ・ヴィンチ文学賞最終候補

メフィスト賞の誌上座談会(メフィスト2009.VOL3)で応募作品が取り上げられる。
R-1ぐらんぷり2010 2回戦進出

小説作品に、『鏡痛の友人』『変性の”ハバエさん”』などがあります。

 

 

 

 

 

 

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