小説『777』にゃんく

 

 

 

777

 

 

にゃんく

 

 

 

 

 みっくんが本格的にギャンブルに手を染めたのは、社会人になってから三年めのことだった。

 そのはじめの一回めは、それほど本格的にはじめようと思っていたわけではなかった。時間もあるから試しにやってみよう。まったくやらないよりも、一回くらい経験しておいた方がいい。その程度の気持ちだった。

 

 そのとき坐った台が、「北斗の拳」だった。

 

「北斗の拳」の漫画も子どもの頃親しんでいたし、何といってもレバーを下げると同時に液晶画面でアニメーションが動きだすのが、それまでに経験したことのなかったあたらしさで、おもしろいと感じた。

 

 ゲームをはじめて、四千円ほど投入した頃だった。大当たりをひいた。何しろ「北斗の拳」でははじめての大当たりだったから、わけもわからずボタンを押していると、左隣のおばちゃんが、敵のザコに表示されている数字の順番に機体の正面に三つ横に並んだボタンを、たとえば、左、右、真ん中、だとか、右、真ん中、左、だとかいうふうな順番で押していくのだと教えてくれた。その番号の順番にボタンを押さないとせっかく大当たりしているのにメダルが出てこないのだ。みっくんは親切なおばちゃんに礼を言ってスロットを続けた。

 

 その大当たりが終わるとすぐゲームをやめて席を立った。

 

 換金所でお金に交換すると、一万二千円ほどが手に入った。ずいぶん簡単にお金が手に入るもんだ。みっくんがギャンブルのおもしろさに目覚めたのはこの瞬間だった。

 

 それから頻繁にパチンコ屋、つまりスロット店に足をはこぶようになった。

 

 新宿の、歌舞伎町の入り口にある、規模の大きな店である。フロアには無数のスロット機が並び、そのほとんどが「北斗の拳」に席巻されていて、しかも一階から五階まで全部がスロットエリアである。住んでいた寮から電車で数十分の距離にあるが、みっくんがわざわざ電車に乗る手間までかけてこの店によく足を運んだのは、最初の勝利を味わったのがこの店であったということもあるし、台数が多いので、小規模の店より、高設定の台が多いだろうという思惑もあった。

 

 はじめの頃は、軍資金をそれほど潤沢に用意して行かなかった。

 

 或る時、液晶画面では派手な演出が続き、いかにも大当たりしそうな気配なのだが、焦らすようになかなか当たらず、ついに財布のなかの金の全部であった三万円ほどを使い果たし、それ以上遊技することができなくなった。

 

 みっくんはあきらめ席を立つと、若いおとこがその後にすぐ坐った。

 

 おとこは友人と連れ立って店に来ており、みっくんの打ちおわった台の表示を見て、何やらいわくいいがたい笑みを友人と交わしていた。

 

 みっくんはおとこがゲームをするのをすこし離れた後方から窺っていた。

 

 果たしておとこが打ちはじめてほどなく大当たりになった。しかも何ということか、かなり連チャンして、おそらくみっくんの呑み込まれた三万にちかい金額がメダルに形を変えて機内から吐き出された。

 

 そういうことがあってから、みっくんはスロットに出掛ける時は常に軍資金を潤沢に用意しておくことを肝に銘ずるようになった。

 

 パチスロをギャンブルではなく、安定的に収入を得ることができるものととらえ、そのための技術とかスキルなどを記載しているという触れ込みのブログを熟読しはじめたのもその頃のことである。

 

 はっきり言ってそのブログを読んでも大当たりは引けないのだが、それはそのブログの作者が持っているスキルを正直に告白していないからであって、作者自身はまさにブログに書いているような理念を実践して仕事もせず毎日スロットを打ち続けて収入を得ているらしいのである。だからみっくんは真剣にそのブログを読み込んでいた。

 

 それプラス、みっくんはみっくん独自のやり方も発案し、それを実地に試してもみた。

 

「北斗の拳」には天井なるものがあって、それはだいたい二千に設定されている。つまりレバーを二千回叩きおわると、「天井」にぶち当たり、ラオウとの死闘であるバトルボーナス、つまり必ず大当たり(777)が出現する仕組みなのである。もちろん、十回だけで大当たりすることもあるし、六百とか、七百とかで当たるかもしれない。つまり、いつバトルボーナスに巡り会えるかは、機械の内部で抽選されていることだから、外部からはわからない。でも、大当たりしないことが無限に続くわけではない。二千回レバーを叩くと必ず大当たりする仕組みになっている。それが天井という設定なのである。

 

 みっくんはそれに目をつけて、千六百とか、千四百とか、いわゆるハマっている台に好んで手をつけた。つまり千六百であれば、あと四百打てば必ず大当たりするし、千四百であればあと六百打てば確実に大当たりが引ける。それを当て込んでのことである。

 

 しかも「北斗の拳」はいちど大当たりをひくと、連チャンが何度続くか、未知数だった。そういうシステムなのである。つまりケンシロウがラオウとの死闘を繰り広げる。ケンシロウがラオウに倒されない限り、バトルボーナスは続く。だからギャンブル性が高く、人気もあり、中毒者も増えた。大当たりが一回で終わることもあれば、ほとんど無限に続くこともある。(無限に続くことは実際にはあり得ないことだが、三十回くらいが上限だっただろうか。一回の大当たりで連チャンが続き、二十万近く勝つ場合だってある。三十回より長く連チャンが続くこともあるらしいが、それを現実に見たことはなかった)。

 

 ハマった台ばかりを狙い、バトルボーナスに当たればそれを消化した段階ですぐその台を離れる、すなわちケンシロウが斃されればすぐその台から移動する、という作戦を展開し、夜の七時ころから店に入店し、十一時の退店までに十二万円ほど大勝したことがあった。メダルに換算すれば六千枚。みっくんの作戦が図にあたったのである。この日は客寄せのために、どの台もメダルを出す設定にされていたのであろう。

 

 しかし店側としては一人の人間に勝たせすぎるのもおもしろくなかったのかもしれない、この時の換金所の対応はおかしかった。

 

 歌舞伎町のこの店は、メダルをプラスチックの板に交換したあと、レシートも何も渡さないから、板を少なめに渡されても客の方はインチキに苦情をいえず、泣き寝入りするしかない。インチキなんてしないだろうとは思ったけれど、みっくんは大勝したことであるし、念のためにメダルを換算したときの、6012枚と記載されたレシートを携帯電話のカメラで写真におさめておいた。

 

 店のカウンターでメダルを交換し、プラスチックの板を何枚かもらった。板一枚で幾らに相当するのか不明であった。けれども、メダル一枚で二十円に相当するから、この枚数では十二万円ほどの金額になるはずであった。みっくんは換金所に行き、板を係の者に差し出した。係の者が渡してきた金額は、八万円であった。みっくんは不審に思い、携帯におさめてあった画像を係の者にみせて、金額が少ないのではないかと言った。奥から責任者らしい、眼光するどいおとこが一名出てきて、係の者に指示すると、あっさりと先刻の金とは別に、さらに四万円がみっくんに手渡された。お金はちゃんともらえたけれど、腑に落ちず、みっくんは苦情を申し立てた。

 

「おかしいじゃないですか」

 はじめから十二万渡しておけばいいのに、知らなければすっとぼけようと思い、みくんに八万だけ渡していた。これ以上文句を言われると面倒くさいと考えたのだろうか、すぐにお金を追加で渡してきた店側の対応に、みっくんは意図的なインチキを感じ、腹を立てたのである。

 

 すると責任者らしいおとこは、

「そんなことが言える立場なのか!」

 と一喝するように言った。それ以上みっくんは何も言えなくて、ちゃんと十二万円もらえたことだし、その場はいちおう引き下がって家路についた。けれども、後から考えると、インチキしておきながら、「そんなことが言える立場なのか!」とは大きく出たものである、と思った。そもそも店はそのような目線で客をゴミのような存在として見ているのである。客をただ、金を吸い取るカモとしてしか見ていないのである。だから、「そんなことが言える立場なのか」などという台詞が出てくるのである。たとえば、寿司屋に行って、勘定が間違っていて苦情を言ったときに、店側が、「そんなことが言える立場なのか!」とは言わないだろう。謝るだろう。ところが、「そんなことが言える立場なのか!」と来た。パチンコ店の客だから、そのような暴言が吐けるのである。思い出すだに業腹だった。

 

 それでこの店に来るのは止めにすれば良かったのに、みっくんは行くことを止めなかった。その日大勝したことで、店側の対応はそれはそれとして、勝ったことに関しては気をよくしたのである。あの責任者にはムカっときたが、店に行かなくなるより、このまま勝ち続けた方が得策だと考えたのである。ソロバンをはじき、この日のような大勝を続けてゆけば、まさにパチスロで人生豊かに暮らせるのではないか。今日のような大勝を十回すれば百二十万稼げるわけだし、それを十年続ければ千二百万円もらえる。工夫すれば、さらに勝てるかもしれない。そうなれば、今の仕事を続ける必要もないのである。まさにスロットで夢が実現できるではないか。甘い空想は膨らみ、みっくんのテンションは見えないところで高まるばかりだった。

 

 それから休みの日はもちろん、仕事がおわったあともスロットをするために同じ店に通いはじめた。

 

 みっくんが着ていた緑のダッフルコートには煙草の臭いが染みついてとれなくなった。マルイで買った、けっこう高くてカッコいいコートだった。けれど煙草の煙のせいか、コートの緑色までくすんでしまっている。スロットをする時は高い服は着ていけないなとみっくんは後悔した。

 

 金はスロットにほとんどをつぎ込むようになった。勝ったときだけキャバクラに行ったり、外食でステーキなどを食べるが、負けるときの方が多いから、食生活も偏ったものになる。吉野屋の牛丼で済ませたり、コンビニのおにぎりで腹を膨らませて気を紛らわす。スロットのために日常生活に必要な金は節約しギャンブルにすべてをつぎ込むようになる。

 

 着る服も、まるで貧乏人のように毎日同じ暗い色のセーターを着、しかも染み着いた煙草の臭いをとるために洗濯の回数が増えたせいで、裾の部分が破れてきた。それでも新しい服を買うことは躊躇われ、いずれスロットで勝った金でちゃんとしたものを買おうとは思っていても、累計でみると結局投資した額より負けた額の方が右肩あがりに増えてゆく。服のことなどかまっていられなくなり、どうせ誰も見ていないだろうと高をくくり、みっくんは裾の破れた服を着つづけることになる。

 

 勝てないのは分析が足りないのだ。或いは、店に行き、すぐに台に坐るのではなく、良い台が空くまで待つ忍耐と時間も必要なのだと考えるようになる。スロプロの人は、仕事をしていない分、すべての時間をスロットに費やせる。だから僕より有利ではないか。その分のハンデを補わねばならない。みっくんはそのように考え、仕事がおわり、寮にかえり私服に着替えると、脇目もふらずスロットに出掛ける。長時間店に入り浸るようになる。みっくんの寮の部屋のなかは掃除もされずに荒れ放題になってゆく。それどころか、勝ち負けに左右されて、まともな食生活も送れなくなっている。日常生活の細かい部分が置き去りにされ、すべてがスロットを中心にまわっていくようになる。

 

 日によって勝ち負けのパターンはいろいろで、一日として同じ日はなかった。

 

 一万円くらいまで勝って、それから小さい勝ち負けを繰り返し、最終的には五万円ほどマイナスになり、一万円勝ったところでやめておけば良かったと反省することもあったし、そうかと思えば僅か二、三千円勝って、これくらいの勝ちで換金するのも面倒だと思って打ち続けたら、そのままずるずると三万円ほど負けたこともあった。

 

 負けばかり続くわけではなかった。平日の朝方店に行くと、どの台も二百回ばかりレバーを叩かれているが、そのあとは捨てたように誰も打っていない。閑散としている。みっくんはギャンブル歴が浅くて、どの台が出るのかわからないし、液晶画面の演出を見ても高設定の台かどうか判断はできない。でも打つ人が打てば、二百ほど打つだけで出る台かどうかわかるのだろうか。だからどの台も、このようにうち捨ててあるのだろうか。

 

 そんな疑問があたまをかすめながらも、みっくんは何気なく選んだ中ほどの一台に坐る。打ちはじめて三分ほどでラオウステージに移行する。ケンシロウが歩きつづける、漆黒の世紀末の荒野に、雷が落ち、北斗七星が光る。みっくんの後ろに通りかかったおとこがそれを見て、深くて長いため息を漏らすのを背中で感じる。数台離れた台で打っているおとこも、みっくんのほうを振り返っている。皆に注目されている気がして、みっくんは良い兆候だと気を良くする。みっくんには後ろで漏らしたおとこのため息の意味がわからないが、ラオウステージに移行したので(ラオウステージは他のステージより大当たりを引きやすいのだ)、期待の予感にこころ躍らせながら、徐々にペースをあげてレバーを叩く。馬の蹄が響く。ケンシロウの手前で黒王が静止する。いかついラオウの顔のアップ。「待っていたぞ、ケンシロウ!」

 

 バトルボーナス、ゲットォォォー!

 

 過激なギター音に乗せて、ケンシロウが次々とザコを打ち斃してゆく。みっくんはケンシロウに同化する。ボタンの押し方やスピードも、だんだんと北斗神拳に近づいていっているようだ。ラオウのパンチ。幻のトキがケンシロウの背後に現れ、トキの動きを盗んだケンシロウは無敵になる。

 

「ラオウ、天にかえるときが来たのだッ!」

 

 連チャンは続く。このまま何処かに辿り着けるような気がする。生きることは、ひとりぼっちだ。仕事をしている時も、休みの時も、友達とたまに話しているときですら、孤独を感じる。けれどスロットを打っているときは、ひとりだと感じないですむ。打ち終わった時、此処ではない何処かへ辿り着いていることを夢見て、みっくんはレバーを叩きつづける。

 

 結果は、久し振りの大勝だった。五万円勝った。みっくんがそれを機に席を立つと、さっきため息を漏らしたおとこが奪うようにすぐみっくんがいた席に坐る。他の席は空いているのに。……三十代手前だろうか、黒っぽい上下の、痩せぎすのおとこだ。まだ立ち去らずに角の通路からうかがっているみっくんのほうは見向きもせずに、ゆったりと煙草に火を点け、煙をくゆらせながら、画面から目線を離さず、レバーを同じ間隔で叩いている。もう出ないだろうとみっくんは内心おとこを可哀想に思っている。僕がこれだけ出したのだから、もう出ないよ、きっと。みっくんは悠々と昼飯を食べに行く。でも、何となくさっき自分が捨てた台のことが気にかかり、食事がおわると店に舞い戻っている。おとこは大当たりを引いている。あろうことか、みっくんが出したよりも多くのメダルを獲得し、床にでんと置いた二箱のケースのなかに溢れんばかりにメダルを積み上げている。

 

 ため息はそういう意味だったのかとあとで思う。みっくんが捨てた台は、出る台だったのだ。みっくんは勝ったのか負けたのかわからない悔しい気持ちで歌舞伎町をうろつきはじめる。

 

 夕方まで適当な漫画喫茶にはいり、時間をつぶしたあと、アルタ横の銀行のまえでミミラを待つ。時刻は六時五分まえだ。

 

 昼の三時に、みっくんからミミラに、

「今、新宿にいる」

 とメールを送ると、三十分ほどして、

「今、起きた」

 

 という返事がミミラから来ていた。だから、いくらミミラが寝坊の常習犯だとしても、約束をすっぽかされることはないだろうとみっくんは安心していた。

 

 寒さは厳しさを増しており、漫画喫茶であったまった軀からどんどん熱が奪われてゆく。何処からともなく吹きながれてきた枯れ葉が、いずこへか吹きとばされてゆく。

 

 約束の六時を三十分すぎて、ミミラはようやくやって来た。下はブルーのジーンズ、寒そうに茶色のフード付きブルゾンに首をうずめている。小さい背――身長はたぶん百五十くらいしかなくて、僕より二十センチは小さいが、ヒールの高さでそれを補っている――小さな頭――やや茶色がかった髪を後ろでポニーテイルふうに束ねている――整った顔に、軀ぜんたいから漲る若さ、愛嬌のある表情は、みっくんより六歳若いのに、歌舞伎町でみっくんが足元にも及ばないほどの輝きをはなっている。馴染んだその姿は、彼女を此処で生まれ育った住民であるかのように見せているけれど、ミミラは沖縄出身で、半年前東京に出てきたばかりの二十歳なのだ。

 

 ミミラのほうから腕を組んでくる。そうすることが当たり前とでもいうふうな自然な仕種で。みっくんのまわりに一瞬ぱっと桜の花が満開になったようだ。こうして腕を組んで歩けば、ふたりを中心にしたこの小さな円のなかに、誰も近づけない、見えない壁が築かれたかのようだ。知らない他人が見れば、ふたりのことをずいぶん前から付き合っている間柄と思うかもしれないけれど、みっくんがミミラと逢うのは今日がこれで二回め。はじめて逢ったのが十日ほどまえで、キャバクラ店の中でのことであった。

 

 地下にある薄暗い居酒屋の個室にはいり、そこで軽く食事をする。

 

 ピザと甘ったるいアルコールと、唐揚げやポテトなどが運ばれてくる。ミミラはほとんど食べ物を口にしない。飲み物はノンアルコールをすこし。みっくんばかりが食べ、アルコールを飲んだ。

 

 ミミラとのとりとめのない会話。個室のまえを通りかかる客の男たちの話し声が遠ざかってゆく。みっくんはミミラに悟られないように彼女の軀をこっそり眺めている。

 

 スロットで買った先週の一月中旬、キャバクラに行き、女を侍らせ、酒を呷った。十五分から二十分でみっくんの隣のソファには、女が交代で坐っていく。瑞々しいほど若い女。胸の大きい女。愛想のいい女。気がきく女。色々なタイプの女がいた。そして二時間そこにいた、その中でいちばん最後に来た女がミミラだった。

 

 店内の中央のステージでは、ちょうど楽器の演奏と、しなを作った水着の女のダンスがはじまっていた。他の客や女たちは皆、ステージに注目していたが、みっくんだけは隣に坐ったミミラに釘付けになっていた。というのも、これまで隣に腰掛けた女たちにはそれぞれ長所があったけれど、皆完璧ではなかったから。その点、ミミラにはまさに完璧という言葉がふさわしいように思えた。完結した美しさのために欠けたものがなかった。このような女が生きて歩いて言葉を喋っていることが不思議に思えるほどだった。昔、中国の皇帝が、お気に入りの后のことを、『言葉を話す花』と表現したというが、ミミラは今まさに満開の花だった。みっくんはミミラを所有したいと思った。そして、自分にはそれができると思った。

 

「変わった名前だね」

 

 みっくんはミミラの名札を指さした。

「お店の人がふざけてつけたのよ」

 とミミラが応えた。

 

 居酒屋で食事をおえると、地上にあがり、再びみっくんはミミラと腕を組み、店を出て歌舞伎町を闊歩しはじめた。中古のブランド品を売っている店の前に来ると、ミミラが足をとめた。ショーウインドーに陳列されたブランドもののバッグに見入っている。

 

「どうしたの? 見たいの?」

 

 とみっくんが訊くと、ミミラは「うん」と頷く。じゃあ、見てみようよ、とみっくんはミミラの手を引いて店内に入っていく。ガラスケースのなかに時計、バッグ、財布などを陳列した店内は、三十歩ほどでぐるりと一周できるほど、広くはない。ミミラはいちいち足をとめて、そのたびに、「これかわいい」とか、「あ、これ前から欲しかったんだ」などという台詞を呟きながら商品を指差してみせる。みっくんは、ミミラの保護者になった気持ちで、「どれどれ?」とか、「あ、似合いそう」などと言ってミミラのご機嫌をとる。

 

 気がつけばみっくんは、ミミラのためにリボンの模様の入った長財布を買わされていた。レジでお金を支払っている短いあいだが、ミミラに自分のことを一番よく見せることのできる時間だった。

 

 けれども会計を終えるか終えないうちに、みっくんの傍でミミラがもうひとつ欲しそうな様子を見せはじめる。今度はカバンの前で足をとめて、白い手袋をはめた店員に、もうそれをガラスケースの中から取り出させている。

 

 急いで会計をおえて財布をポケットにしまうみっくんを見あげて、「あ、これも欲しかったんだ、あたし」、「かわいい!」などの台詞を連発しはじめる。財布一個ですら、同伴入店の額と合わせれば、今日のスロットの勝ちで補えないほどだったけれど、みっくんは、ミミラのハイテンションを前に、「ああ」「ああ」などと上の空の言葉を出し続けるばかりである。

 

「ダーリン」

 

 もう一押しと踏んだのか、ミミラがみっくんに腕をくみ、無意識のうちに、あるいは意識的に、その豊かな乳房を押しつけてくる。魅惑的で柔らかな物体に、触れているような触れていないような感触が、みっくんを舞い上がらせる。

 

「お願い。これ、どうしても欲しいの」

 ルイ・ヴィトン モノグラム 斜めがけバッグ。これを買ってあげれば、ミミラを思いのままにできるのだろうか。乳房だけではない。そのすべてを我が支配下におさめることができるのだろうか。そう考えれば、安い買い物ということができる。収支はマイナスになるが、それはまたスロットで買って補えばよいだけの話だ。僕にはスロットがある。ギャンブルがある。そしてミミラがいる。

 

 レジで勘定をすませると、ミミラが抱きついてくる。

 

「キャー、ありがとう」

 

 喜ぶミミラを見て、買ってあげて良かったな、とみっくんは思う。品物を両手に提げたミミラを連れて、歌舞伎町を歩きだす。

 

「うれしい、男前」

 

 さあ、夜はこれからだ。このままホテルに行くのか。お誂え向きに、ラブホテルも近くにある。隣には、僕のものになったミミラがいる。みっくんが隣を歩くミミラに視線をあてて口を開きかけると、その時ちょうどミミラの携帯に何者かから電話がかかってくる。邪魔者。

 

 緊張の時間。我が軍門にくだったはずのミミラの声が、甘ったるい甲高い声から、機械的な冷たい事務的なものに変わってゆく。何かしら不穏な気配。

 

 ミミラは電話を切ると、

 

「店の人から」と彼女は言った。「そろそろ行きましょ」

 

 ミミラがすたすたと前を行きみっくんを誘導しはじめる。

 

「あ、何処へ…?」

 

 手の中にあった、愛玩用のかわいいミミラが、脱走し野生化し、逃げ出してゆく。

「何処って、店に行くのよ。八時までに着かなくちゃ」

  みっくんは腕時計を見た。現在時、七時四十五分。

「ちょっとくらい遅れても大丈夫じゃない?」

 みっくんの声は間が抜けて響いた。みっくんは、この期におよんで、まだラブホテルに行けるのではないかという夢にしがみついたままだった。その夢のために、プレゼントをふたつも購入して、奮発したのだ。

 

「何言ってるのよ。三十分以上遅刻したら、無断欠勤ってみなされて、罰金三万円なのよ」

 

 今やその夢が儚い幻のように雲散霧消しようとしていた。根が生えたようにその場にへばりついているみっくんを、面倒くさそうにミミラが睨んでいる。みっくんの達成が瓦解してゆく。甘い夢の世界が、泥色の現実に浸食されてゆく。こんなに時間がないのは、元はといえばミミラが遅刻してきたからだと、みっくんは今になって急に妬ましく思う。

 

 ミミラが歌舞伎町を自分が働いているキャバクラ店のある方へ向けてみっくんを先導してゆく。みっくんはミミラが両手に提げているプレゼントを、今から戻って行って店に返品したらどうだろうと空想した。ラブホテルに行けないのだから、それくらいしても良さそうである。しかしそんなことをすれば、ミミラとの関係はそれでジ・エンドだろう。

 

「あの」

 みっくんは、奥手な女学生みたいに、もじもじしながら早歩きのミミラに声をかける。

 

「はあん?」

 また面倒くさそうにミミラが振りかえる。もう、両手の品物は、誰かからもらったプレゼントではなく、自分で買った品物だと言わんばかりである。

「ミミラ、僕のこと好き?」

 

 ミミラがぽかんと口を開けている。

「どうしたの、急に……」

 

 路傍には、雑居ビルから出されたらしきゴミ袋が三袋ほど打ち棄てられている。その脇には、酔っぱらいが吐いたと思しき、乾燥しかけの吐瀉物。

 

「僕、ミミラのことが好きだよ。ミミラは僕のことどう思ってるの……」

 路傍の辻々にちらほらと立っている客引きのおとこたちが、訝しそうにふたりを睨んでいる。

 

「あたしのことが好きだって……?」ミミラが大きな瞳をさらに丸くする。「だって、まだ、会ったばかりじゃないのよ」

 

 確かにそのとおりである。そう言われてみると、会ってまだ二回めなのに、好きだなどと口走っている自分の方がちょっとおかしいのかもしれない。

 

「でも、やっぱり、ミミラのことが好きだ」

 

 みっくんは辛抱強く続ける。汚い街で。プラトニックな愛の告白を。それとも今、みっくんを突き動かしている熱い衝動は、傍の吐瀉物と同じ、一時的な吐き捨ての「性欲」のなせるわざなのだろうか。

 

「あたし、あなたを怒らせちゃうくらい、ワガママよ」とミミラが言った。「あなたに、あたしの彼氏がつとまるかしらね?」

 

 みっくんとミミラはしばらく睨み合っていた。みっくんはミミラの突き刺してくるような澄んだ瞳から目をそらさなかった。「つとまるよ」

 

 ミミラが薄く笑った。馬鹿にした素振りのようにも見えるし、良くとれば、みっくんのことを見直したかのようにも見えた。いずれにせよ、ミミラはひらりと反転し、後ろを見せて歩きはじめた。やや歩数を歩んでから、みっくんを振り返り、

 

「行きましょ」

 

 何でもなかったかのように歩きだした。みっくんは引き離されないよう小走りに付いて行った。

 

 あと百メートルも行けば彼女の勤めるキャバクラ店に着いてしまうというところで、みっくんはスピードをあげてミミラに追いついた。そして出し抜けにミミラの両肩を両手で摑み、正面から廻り込んだ。彼女にキスをしようとしたのだ。ミミラは蝶のように身軽にそれを躱した。「何すんのよ、がっつかないでよ」

 

 みっくんがまだミミラにしがみついて、キスしようとするのを、ミミラが軽くいなして、「ははは、今度ね、今度」

 

 ふくれっ面をするみっくんを残し、ミミラが我慢しきれずに吹き出した。みっくんの思いはから廻りのまま、都会の薄暗く翳った存在感のない月と同じように、中空に浮かんだまま置き去りにされる。

 

 八時五分過ぎ。店の入口に着くと、前回と同じように客案内のおとこが立っていて、僕たちを一瞥すると、襟元につけたマイクで何事かを報告している。店の階段をおりていく。ミミラのヒールがカツカツと鳴る。みっくんはゆっくりとしか階段を下りられないミミラに合わせて、時々振り返りながら地下へと向かう。地下のクロークでダッフルコートを預けると、ミミラに座席まで案内され、店の奥のほうにあるソファに坐る。控えめのオレンジのライトで照らされたステージ上には、ドラムセットが置いてあり、まだ誰の姿もない。ステージを囲むように放射状に広がったソファの列にも、客の姿はまばらだった。ステージに向かって右側の前列、先客の中年の、バーコード頭の脂ぎった顔の親爺が入ってきたみっくんを眺めるともなく眺めている。ミミラがみっくんの隣にはべり、おしぼりを渡してくる。ミミラの仕種はもう、疑似恋人気分から、明らかにひとりのお客に奉仕するプロの仕種にかわっている。みっくんはその変貌を悲しく思う。金さえあれば、誰にでも手にはいる時間。誰でもない時間がはじまったのだ。

 

 十分ほどとりとめのない話をしたあと、知らない嬢がミミラと交代してみっくんの隣に坐る。たぶん若いのだろう。悪くはない。けれども、どうしてもミミラと比べてしまう。すると見劣りする。花ではない。人間という感じ。人間が、ドレスを着て、花のふりをして誤魔化そうとしている。だからその嬢とは特に話が弾まない。十分経てば何を話したのか忘れてしまうような内容だ。話すことに意味があるのかわからなくなる。みっくんの口は重くなり、嬢も二、三度話題をふったあとは、みっくんの短すぎる答えのまえに、怖れをなしたかのように黙り込む。嬢が退屈そうに、時折人通りのあるクロークのほうを目でちらちらうかがっている。それから十分ほどすると、また違う嬢が交代し、みっくんの隣に坐る。日本語がカタコトの、アジア系の外国人だった。そういえば日本の女より軀が大きい。女はみっくんに携帯の番号の書いた名刺をわたし、しきりに後で電話をかけるよう頼んでくる。

 

「わかた」

 

 みっくんは女の真似をしてカタコトの日本語で答える。「わかたよ」

 

 最後にミミラがみっくんの隣に戻ってくるけれど、一セットの四十分がきたので、みっくんはミミラに帰りを告げる。ボーイが会計をもってくる。

 

「こんど、終わりまでいてくれたら」ミミラが言う。「いいことあるかも」

 

 ミミラはみっくんのコートを持って立ちあがる。

 

「いいことって?」

 

 とみっくんはミミラに訊ねるが、彼女は指を口にあて、ただ「内緒」と言うばかりで教えてくれない。みっくんのあたまの中で「内緒」の中身が渦をまきはじめる。ようやくミミラに僕の思いが届いたのだろうか。しかし最後までいるとなると、何時から入店するかにもよるが、いったい幾らかかるのだろう。まあ、僕にはスロットがあるから、捻出はできるだろう。ミミラが階段をあがる思案顔のみっくんを最高の作り笑いで見送ってくれる。ミミラはこれから二時――閉店の時刻まで仕事である。みっくんと同じような男の客を何人も相手にするのだ。

 

「また連絡するよ」

 

 とみっくんはミミラに言って別れる。給料日はまだ三週間ほど先であった。ミミラに「内緒」を実行してもらうためには、幾ら必要だろう? 三週間の生活費と、ミミラの「内緒」のために必要な金のことを考えると、どうしてもスロットで持ち金を何倍にも膨らませる必要がある。そして今みっくんにはそれが可能なものに思えている。やり方さえ間違えなければ、今日のように、それは簡単に手に入るに違いなかった。

 

 

 

 

 

つづく

 

 

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執筆者紹介

にゃんく

にゃんころがりmagazine編集長。
X JAPANのファン。カレーも大好き。

 

 

 

 

 

 

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